——千葉さんは、ご自身の文章を、しばしば「詩」や「私小説」に例えることがあるそうですね。
友人のマイケル・フィッシュ先生(シカゴ大学、機械人類学、日本研究)ご夫妻から、「千葉さんの書くものは詩だよね」と言われたことがあります。後で「自分のフレームには、経済学の部分が大きいかも…」と言ったら残念がっていたので、あれは誉め言葉だったんだと思うようになりました。さらには、もう「詩でいい」と開き直るというか、「私小説と言われてもいい」という境地の現在です(笑)。思えば、もともと文学部志望で詩人になりたかったので、マイケルさん達の評価は、自分を詩人の末席においてくれたという意味では、感謝しなければならないことですよね。
——そうした詩的な感覚と、経済学の話はどう繋がるんですか。
まあ一応、経済のこと(それが内包する周縁・周辺)に関心があって、12世紀南インドの詩(ワチャナ)に出会い、そこから神秘主義やアニミスティックな共生に流れ着いてしまった訳ですが、いま再び「経済」というもの、その理念に戻ろうとしている自分がいます。その回帰には、故郷の回想や3.11での被災とその横暴な「国家主導の創造的復興」が介在しています。
アダム・スミスも確かに「利己心」を重視しつつ、分業による国富の増加を説きました。でもその根底にあったのは、「他者の痛みを自分の痛みとして感じ受け止める」共感(sympathy)だったと思うんです。貧困のために罪を犯してしまう人々の心の痛みに共感するが故に、国富の増加によってその多くの弱者・貧困者を救済しようとしたと。これが、私が経済学に感激し拘る理由ですし、「救済としての経済」を発見した時でした。
一方で、ミルトン・フリードマンの「自由」追求の背景には「ナチスによる迫害」があると聞きます。それが本当なら、彼の「自由」は藁人形の儀礼のような置換的な行為化か、シカゴ学派のファンタジーに、私たちは散々付き合わされて来たことになります。抑圧や迫害からの解放のストーリーでなくても、シンドラーや杉原千畝や布施辰治のように「共感」を持って救済に尽力する道もあるはずです。
——最後に、これからの構想についてうかがえますか。
人間社会に限定されてきた「救済の経済」を飛び越え、多種存在と詩的でアニミスティックな交流を開き、その「共感力」や「弱者を中核とした生存戦略」といった人間の特性を「救済として」、瀕死の状態の「多種類コミュニティ」の中に埋め戻すような「多種救済としての経済」という人間の生態軌道の変更と作業が必要と思っています。
それは上から手を差し伸べるような一方的な救済作業ではなくて、また自然界の総てを本能プログラムの機械的生命現象の集合と見誤るのではなくて、理性や言語や文化を持った存在としての創造的な行為主体としての彼ら自然(多種)と、対話や学習を続けながら絡み合う「世界の共同制作」であるべきとも思います。
昔話や童話や神話のように、他(多)種と対話したり協力したり、時に彼らが大きな障害となって立ちはだかったりしても、同質の魂ゆえの対話と協働・共生を諦めない多自然主義の、あるいは私たちの「救済の経済」(バクティ)が、人を生き森を生きるような同質の魂の流れの中に合一するような神秘主義の物語を探しています。
こんな話、呆れて誰も相手にしてくれないとも思うんですが、お決まりの情報処理の仕方や固定観念や科学的再現可能性から除外された単なる意味のない偶発的な出来事と見做されてきたことを「別のしかたで考え、捉え直して、それを物語として書いていく」と言ったヴァル・プラムウッド(既にお亡くなりになっている)の哲学と生き方を、真剣に受け止めたいと思っています。その言葉は、個人的に私自身に手を差し伸べ救済してくれているかのように、とても胸に響く訳です。
でも誰か(多種も含めた)とそうした「新しい物語」を共に、互いの生き方の課題も共有しつつ「了解的に話し合い」紡いで行けたらと。鳥や死者や風と対話するような不思議な経験を共有すること自体が癒しであるように、お決まりの思考形式を越えて、「多種と共に生き、共に創る」物語のための誠実な話し合いに着くことが、壊れゆく世界を癒すための大切な一歩かも知れないと感じている今日この頃です。





