——そうした身体的な実感を伴うことで、研究対象である「美術作品」の見え方も変わりましたか?

変わりましたね。「懐(ふところ)に入れていただく」という感覚でしょうか。

例えば、教会建築という空間に入った時、分析する主体としての自分ではなく、その空間に包摂される客体としての自分を感じる。そうすると、教会の空間構成や、光の演出、香りの効果、聖歌の響きなどが、いかに熟考を重ねられたものであるかが分かります。

彼らは「これでもか、これでもか」と、様々な手段を使って「神聖性」に気づかせるような演出をし、訪れる人々をその懐に引き込もうとしている。その世界にどっぷりと浸かることができたのは、自分自身が巡礼者としてボロボロになりながら歩いたからこそだと思います。

——演出という言葉が出ましたが、先生の研究テーマである「聖遺物容器」は、まさにその「価値づけの演出」が重要になってくる対象と言えそうです。

そうですね。聖遺物というのは、物質として見ればただの「骨」や「布切れ」、あるいは「土」に過ぎないこともあります。信仰を持たない立場から見れば、価値のわからない物体です。しかし、そこに「物語」や「豪華な容器」が付与されることで、金銀財宝よりも尊いものであるということが視覚的に認識されるようになって、価値がわかりやすく提示されます。

私はこの聖地の生成の仕組みや価値付与のシステムに猛烈に関心があるんです。

——ある「モノ」に文脈を与えて価値を生み出すというのは、現代のアートや経済活動にも通じる話ですね。

そうなんです。特にキリスト教は、例えばパンやワインがキリストの肉や血に実体変化する聖体拝領の典礼など、高度に観念的に見える価値の付与や転換をその信仰の内に含んでいます。こうしたダイナミズムを支えるために、非常に知的なロジックと美術などをはじめとする五感を刺激する演出が散りばめられているように思われるのです。

例えば、聖遺物は接触の原理で聖性が伝播していきます。聖なるものに触れたものにも、その聖性が転移するというロジックです。だから、聖人の遺体に触れた布もまた、聖遺物として崇敬の対象になる。

——ものすごく高度なロジックで、一見地味なモノでも「聖性を媒介する装置」として認識されるんですね。そう考えると、宗教改革でルターが「我々は、聖書を読めば直接、神と対話できるはずだ!」と主張したのは、とても大胆というか。

実はルターは、聖遺物をきびしく批判しているんです。カルヴァンもですが、著作を読むと本当に面白いですよ。例えば、ルターは聖遺物として篤く崇敬されていたグラスでビールを飲んでみせるわけです。これまで最上の価値を有していたものが、ただのグラスにされてしまう瞬間です。

最後は沖縄というフィールドについて伺います。