ジンブン独学ノートの実践編では、実際の研究について紹介します。研究へのモチベーションから、どのように日々の調査が行われているのかまで、インタビュー形式でお届けします。
第五十二回となる今回のインタビューでは、中世ヨーロッパの聖遺物容器や個人的な祈りのための造形イメージ研究を専門とし、東京大学大学院での研究・助教職を経て現在は沖縄県立芸術大学に拠点を移した美術史家、太田泉フロランスさんにお話を伺います。
キリスト教美術の衝撃
——先生のご専門は「キリスト教美術」、その中でも特に聖遺物容器や、個人的な祈りのために用いられた造形イメージについての研究とうかがっています。実は私、今日の予習のために「聖遺物」でネット検索をしてみたら、オンラインゲームの『原神』が画面いっぱいに出てきて、ちょっとびっくりしました(笑)。
そうなんですか(笑)。最近、自分の研究テーマである「聖遺物」を日本語でネット検索していないので、全然知らなかったです。今、そういうことになってるんですね。
——どうやら、ゲーム内でキャラクターのステータスを強化するための装備アイテムが「聖遺物」と呼ばれているらしいんです。
そうでしたか。私も似たような経験を思い出しました。「煉獄(れんごく)」というワードです。以前なら、例えばダンテの『神曲』に出てくる「煉獄」が代表例の一つですが、、検索すれば本来の意味が上位に出てきていました。でも今は、『鬼滅の刃』一色。「このオレンジ色の髪のキャラクターは誰なんだろう?」と思いながら検索結果を眺めていましたね。
——本来のキリスト教の文脈にたどり着くのが難しくなっていると。
ええ。ただ、言葉自体に馴染みが出るのは、悪いことばかりではないかもしれません。「あれってそういう意味だったんだ」と、後から本来の意味に関心を持ってくれる人が増えれば面白いですよね。それに、ゲームで「力を高めるアイテム」として扱われているのも、あながち間違いではないんです。歴史的にも、聖遺物は神の力のメディア(媒体)として、奇蹟を起こす力を持つものだと信じられていましたから。
——なるほど、機能としては通じるものがあるわけですね。そもそも先生が、そうしたニッチとも言える分野に関心を持たれたのは、どのようなきっかけだったのでしょうか。最初から美術史の道を志していたのですか?
いえ、実はそれが全く違うんです。高校時代は理系で、医学部を目指していました。人体への関心もありましたし、当時、近所に病気で苦しんでいる方がいたこともあって、医師という職業に憧れがありました。色々なことがあって文転したのですが、大学生になってパリに短期留学している際に、空いている時間全て美術館に入り浸っていたら、自然と美術史という学問に関心が向きました。フランスは学生などの若年層が文化的なものに触れようとした際に、ものすごく金銭的なハードルが低かったのです。これは外国人学生に対しても同様でした。学生価格で激安の年パスを持って文字通り毎日ルーヴルに通いました。私は父がフランス人で、子供の頃から夏休みにフランスの祖父母の家へ行く機会がありました。そこで美術館に行ったり、古い教会を見たりするのが好きだったことを留学中思い出したんです。ただ、宗教美術の記憶といっても、楽しい思い出ばかりではありません。
——と言いますと?
祖父母の家のベッドの上に、十字架に磔になったキリスト像が飾ってあったんです。それが、よくある綺麗に彩色されたものではなく、黒檀(こくたん)のような真っ黒い木で作られたもので。黒い十字架の上に、黒いキリストが苦悶の表情で張り付いている。子供心にそれがものすごく怖かったんです。「うわあ、恐ろしいものを見ちゃった」という感覚というか。
——幼心に刻まれたその恐怖心が、学問的関心の種の一つになっていると。
そうですね。大人になって美術史を学ぶうちに、キリスト教美術というのは、単にゴージャスで美しいだけのものではないと気づきました。そこには死や痛み、血といった生々しい要素が多分に含まれています。
大学3年生の時、後に指導教員となる秋山聰(あきやま・あきら)先生が「聖遺物容器」についての通年講義をされたんです。そこで、中世の人々が聖人の骨や遺物を収めるために作った、奇妙でありながら美しい容器の数々を見て、「これは!」と衝撃を受けました。子供の頃から「これは一体何だろう?」と不思議に思っていた容器が学問の対象になると知った衝撃に加え、作品の「モノ」としての面白さと、子供心に持っていたキリスト教美術に対する怖さと好奇心が入り混じった記憶が繋がった瞬間でした。
——医学への興味から、「聖なるもの」を扱う美術史へ。形は違えど、人間の身体や、生命の限界を超えたものへの関心は一貫しているように思えます。
そうかもしれません。ただ、私は自分自身、特定の信仰を持っているわけではありません。現代の唯物論的な世界に生きる一人の人間として、なぜ人は「目に見えないもの」をこれほどまでに信じ、渇望できるのか。そのメカニズムを知りたいという欲求が強くあります。
神は見えませんし、キリストも遥か昔に亡くなっています。それなのに、人々はどうにかして聖なる存在を形にしよう、繋ぎ止めようと必死になる。その「焦がれる」ような感情と、それを実現するための演出や工夫に、強く惹かれるんです。
——「焦がれる」ですか。確かに、見えないからこそ、形にしようとするエネルギーは凄まじいものがありますね。
ええ。それはもう、非常に知的な営みです。信仰を持たない私には永遠にアクセスできないような崇高な「何か」を求めて、試行錯誤した痕跡が作品に残っていたりします。
ある種の「発想の勝利」みたいなところもあって面白いんですよ。「え、そんな表現する?」というような、面白い造形が、実は神学的な思想を反映した結果だったり。そういう、見えないものを形にするための知的な葛藤と情熱に触れると、心が震えます。
次回は実物と身体で研究する彼女のスタイルについて伺います。



