ジンブン独学ノートの実践編では、実際の研究について紹介します。研究へのモチベーションから、どのように日々の調査が行われているのかまで、インタビュー形式でお届けします。

第四十回となる今回のインタビューでは、非営利の文化事業や教育普及の領域を軸に、人々の集まる「場」やそこで生まれるコミュニケーションそのものをデザインするアートディレクター、富塚絵美さんにお話を伺います。

経済と文化の狭間で育まれた「演出家」としての視点

——本日はよろしくお願いします。まずは、富塚さんが肩書きとして掲げている「アートディレクター」という仕事について教えていただけますか。

よろしくお願いします。一般的に「アートディレクター」というと、広告業界やデザイン業界における視覚的な責任者、ポスターやプロダクトのデザインを統括する人をイメージされることが多いですよね。ですが、私が名乗っているのは少し違った意味合いなんです。

——確かに、富塚さんの活動を拝見していると、いわゆる広告や製品のディレクターとは違った印象を抱きました。

そうですね。私はこれまで、主に非営利の文化事業や教育普及のエリアで仕事をしてきました。商業的なビジュアルを作るというよりは、人々が集まる場であったり、そこで生まれるコミュニケーションそのものをディレクションすることに関心があります。「アートのディレクター」、つまり「芸術的な視点を持って、物事や場の進行を指揮する人」という言葉通りの意味で使っています。ただ、アートの現場というのは、全員が同じ目的に向かって整然と進むわけではないことも多いので、誤解がないようにしてもらいたいのですが。そういった予定調和では生み出せないもののディレクションをしています。

——なるほど。「場」や「関係性」のデザインに近いイメージでしょうか。

ええ、私の関心は「人の営み全般」にあるんです。人が集まることで何が起きるのか。特定の目的を達成するためだけに集まるのではなく、「ただ集まった時にどんな化学反応が起きるのか」という点に、常に興味の根底があります。

——「人の営み」への関心。それが現在の活動につながっているのですね。そうした視点は、どのような環境で育まれたのでしょうか。

実は、私の実家は神奈川県の厚木市にある豆腐屋なんです。典型的な個人商店で、商品を売って対価を得る、お客様のニーズに応えて感謝されるという、非常に分かりやすい経済原理の中で育ちました。だからこそ、大学に入って「ニーズがなくても作り続けるアーティスト」や「赤字でも回っている文化行政」という、実家の商売とは全く異なる価値観に出会った時は衝撃でしたね。

——ご実家の「経済の論理」と、大学で出会った「文化の論理」のギャップですね。

そうです。「そんなことが世の中にあり得るのか?」「綺麗事じゃないのか?」という疑念もありました。日本社会において、趣味であればアートは優しく見守られますが、ひとたびそれを「仕事」や「公共事業」としてやろうとすると、途端に厳しい視線に晒されます。「税金を使って何をやっているんだ」と。私はあえて、その一番摩擦が起きそうな、一番難しい場所に突っ込んでいきたいという、少しひねくれた好奇心があったのかもしれません。

——あえて難しい道へ進まれたんですね。その「大学」というのは東京藝術大学のことかと思いますが、そこに至るまでの過程、特に中高生時代はどのように過ごされていたのですか?

私は玉川学園という、少し特殊な教育方針を持つ学校に通っていました。そこには「自由研究」という、授業の一環でありながら部活動のように1年間かけて取り組むカリキュラムがあったんです。運動部とは別に、文化系の活動として必ず何かに所属しなければならなかったのですが、そこで私は自分のやりたいことを突き詰める経験をしました。

——「自由研究」がカリキュラムとして組み込まれているのは面白いですね。具体的にはどのような研究を?

中学生の頃はミュージカルの研究をしていました。「キャッツ」などの有名な作品を題材に、50人くらいの生徒が集まって、1年後の公演に向けて準備をするんです。バレエが得意な人に振付を頼み、腹式呼吸を知っている人に発声を教わり、帰国子女に英語の発音を直してもらう。字幕なしの原語上演を目指して、みんなで台本を翻訳し、演出や美術を考える。まさに「劇団」のような活動でした。

——中学生だけでそこまで本格的に作り上げるのですか。それはすごい経験ですね。富塚さんはそこで、演者として前に出るよりも、全体を見る役割が好きだったのでしょうか。

最初は目立つ役を演じることもありました。でも、学校のOBや保護者の中にいたプロの芸能関係の方に言われたんです。「君は役者にはならない気がする。演出家とか、もっと違うことをしたほうがいい。」と。私も自分のイメージが強すぎて、演出家の枠に収まらないタイプに見えたのかもしれません。

——未来を見通したような言葉ですね。その一言が、作り手側への意識を強めるきっかけになったと。

そうですね。それに加えて、当時学校がプロジェクト・アドベンチャー(PA)という、アメリカ発祥の「冒険教育」を取り入れ始めたことも大きかったです。チームビルディングや信頼関係の構築を目的としたアクティビティを行うもので、学校内にその専門拠点ができたんです。「心の教育」の一環だったのですが、私はそのファシリテーター養成のような場に通い、そこで学んだチームビルディングの手法を、自分の自由研究の場に取り入れていきました。

——高校生にして、組織論やチームビルディングを実践の場で試していたわけですね。

仮想現実を通して学んだことが実際の人間関係に効いてくるということに興味を惹かれました。ゲームのようなアクティビティを通じて、「どうすればこのチームはうまく機能するか」「人をどう配置すれば面白いことになるか」と、常に思考実験をしていたので、変な学生だったのかもしれません。友人に「いつか頭の中をかっぽじって見てみたい」と言われたこともあります(笑)。そんな風に、自分のやりたいことが既存の学問の枠組み——文系や理系といった区分け——に収まらないことは薄々感じていました。

次回は関心の移行について伺います。