ジンブン独学ノートの実践編では、実際の研究について紹介します。研究へのモチベーションから、どのように日々の調査が行われているのかまで、インタビュー形式でお届けします。

第四十七回となる今回のインタビューでは、高等専修学校での実践を経て、排除される若者の「生」を追う教育学者、尾河勇太さんにお話を伺います。

排除の構造への臨床的アプローチ

——現在は、髙田一宏先生や知念渉先生の指導のもと、研究を進められているそうですね。

お二人の先生との出会いは、私にとって最高の幸運でした。髙田先生は、教育政策やシステムのフェアネスをマクロな視点で捉えていらっしゃいます。一方で知念先生は、困難を抱える若者たちのエスノグラフィーを通じて、彼らの「生」の内実にどこまでも深くコミットされる。私は、この「構造への視点」と「個人の生への視点」の両立、その「間」にこそ、真実があると考えています。

——現在の研究では、具体的にどのような調査を行っているのですか。

博士課程では、高等専修学校の卒業生たちの「卒業後の社会生活」を追跡調査しています。彼らと一緒にパチンコや競馬に行き、同じ時間を過ごしながら、彼らが社会の規範の中でどのように「息」をしているのかを丁寧に聞き取っています。

——パチンコや競馬、ですか。一般的な「模範的な卒業生調査」とは全く異なるアプローチですね。

ええ。世間的な「正しさ」や「成功」の基準で見れば、彼らの生活は「不適切」だと思われるかもしれません。しかし、その「正しくなさ」の中にこそ、彼らなりの生存戦略があり、社会に対する必死の適応がある。それを「逸脱」として片付けるのではなく、ありのままの記述として残したい。それが、私にできる唯一の【臨床】的な貢献だと思っています。

——それは、研究者としての客観性と、当事者への共感が常に引き裂かれるような、苦しい作業ではないでしょうか。

おっしゃる通りです。時には、ハローワークに付き添って就職相談を受けることもあります。研究者としては「介入しすぎ」だという批判もあるでしょう。しかし、目の前で社会から放り出されようとしている彼らを「観察対象」としてだけ見ることは、私にはできません。一方で、個人のボランティア的な献身に頼らなければならない現状そのものが、教育と福祉の接続がいかに脆弱であるかを証明してしまっている。このジレンマこそが、私の研究の核にある「痛み」です。

——尾河さんが見据える、今後の日本の教育・社会のあり方についてうかがえますか。

私は、「教育と福祉の健全な接続」こそが喫緊の課題だと考えています。学校が全ての尻拭いをするのではなく、スクールソーシャルワーカーなどの専門職を介して、もっと自然に、制度的に彼らを支える仕組みを構築すべきです。

——しかし、単に「受け皿」を増やすだけで解決する問題ではない、とも仰っていましたね。

そこが髙田先生の重要な指摘とも重なる点です。通信制高校や専修学校といった「受け皿」をいくら拡充し、その中のケアを厚くしても、「公教育」というメインストリームのあり方が変わらなければ、排除の構造は再生産され続けます。こぼれ落ちた先の皿を大きくするのではなく、なぜこれほどまでに多くの子供たちが皿からこぼれ落ちてしまうのか。その社会全体の不寛容さをこそ、私たちは問い直すべきではないでしょうか。

——かつて学校を「怪物」として追い出された尾河さんが、今、研究者としてそのシステムを問い直している。この歩み自体が、一つの大きな希望のように感じられます。

ありがとうございます。私が今日お話ししたことは、自分自身の「痛み」を伴う経験の延長線上にあります。かつて拳でしか表現できなかった怒りや違和感を、今は学問という共通言語に変えて、社会に届けていきたいと思っています。

——尾河さんの言葉は、教育という枠組みを超えて、私たちが「他者と共に生きる」ことの意味を深く突きつけてくる気がします。本日は、本当にありがとうございました。