——時系列を少し遡らせてください。千葉さんが最初にインドへ向かわれたのは、大学4年生の時だそうですね。
1980年代ですね。大学生が海外へ行くこと自体、まだ珍しかったかも知れません。私は周りがリクルートスーツに身を固め就職活動に走る中、それを一切放棄して、輪行用の自転車を担いでインドのコルカタへ飛びました。手元にあったのは、故郷の役場から借りていた奨学金。それを握りしめて、数ヶ月間、特に南インドの大地を漕ぎ回りました。
炎天下、畑仕事をしていた人達が、自分が食うのもままならないのに、昼飯を分けて一緒に食べようと言ってくれるんですよ。そんな南インドの優しさに打ちのめされました。これはやっぱり、ちゃんとした形で南インドにもう一度来なきゃいけないなと思ったわけです。
——かなり無茶をされたのでは。
無茶と言われると、インドに滞在していた時よりも、何とか死に物狂いで帰国してからでした。大学の掲示板に行って見ると「除籍者名簿」が貼り出されていて、自分の名前が載っていました(笑)。
——そこに自分の名前が。
当然ですよね。授業料にあてるはずのお金を握ってインドを走っていたわけですから。ところが、事務室に相談に行ったら事務の方が「4年生で…ずっとインドに行ってたんだって…。しょうがねーな。何とか払ったことにしておいてやっから、いついつまでに必ず持ってこいよ」と、とんでもない融通を利かせてくれたんです。その後、学費捻出のために週に三つのアルバイトを掛け持ちする無茶が待っていました。
——卒業式には出られたんですか。
日々の生活に追われていて、卒業式には出られなかったので、後で事務室に卒業証書を取りに行きました。そしたら、事務のお姉さんがガラスの小窓を開けて、証書に両手を添えて「おめでとうございます」と言って渡してくれたんです。事務室の窓口での大学の卒業式でしたが、「オレはオレで、これでいいんだ」と思えました。その後、大学を卒業して二年が経った3月、インド大使館のインド政府給費留学生の試験を受けたんですが、まぐれで受かってしまいました。
次回はバンガロール大学で出会った12世紀南インドのリンガーヤタ運動、その詩「ワチャナ」が詠う「救済としての経済」について伺います。




