ぼんやりが、豊かさになるとき
「顔」をめぐる共同研究の二年目
SPEAKERS
永井 久美子
東京大学 / 比較文学・古典文学
日本の中古、中世の文学と絵画の関係を中心に、古典のイメージが現代にまでどう受容されてきたかを研究。本プロジェクトの代表として、文学・美術史・心理学・情報学を横断する協働を立ち上げた。
出口 智之
東京大学 / 日本近代文学・美術
主として明治期の口絵・挿絵を対象に、文学とビジュアル表現の関係や史的位置づけを研究。文学・美術(美術史)・メディア史・印刷史・法制史などをクロスさせた研究を進めている。
梶谷 真司
東京大学 / 哲学
日本近世の生活思想(『重宝記』など)や育児の歴史を扱いつつ、哲学対話の実践でも知られる。東大ヒューマニティーズセンター(HMC)の立ち上げにも関わった。
「内面の描写」と「外見の描写」はどうリンクしているのか——文学・美術史・哲学・心理学・情報学の研究者が「顔」をめぐって交差するプロジェクトが、2025年度から始まった。3年間の学内共同研究を経て、科研費「挑戦的研究(萌芽)」へ。代表の永井久美子先生(比較文学・日本古典文学)と、出口智之先生(近代文学・美術)、梶谷真司先生(哲学)に、いま研究の現場で何が起きているのかを聞いた。
「外見」と「内面」はリンクしているのか
——今回は、科研費プロジェクト「外見描写と内面評価の相関性史」が始まったきっかけと現在地を、永井先生・出口先生・梶谷先生にうかがっていきます。まずはこのプロジェクト、タイトルだけだとなかなか内容の想像がつかないかもしれません。プロジェクト代表者の永井先生、一言で言うと、これはどんな問いに立ち向かおうとしている研究なのでしょうか。
小説や漫画、アニメを思い浮かべてみてください。登場人物の「外見の描写」と「内面の描写」って、リンクしていることが多いと思いませんか? この研究は、そのリンクの仕方を、日本に限定しながら、歴史的に幅広い視野でとらえて探ってみようというものです。
——身近なエンタメ作品で言うと、キャラクターデザインがまさにそれですよね。
そうなんです。たとえば「責任感のある人物」なら、この外見がふさわしい——そういう判断のもとにデザインされている。あるいは逆に、外見から予想されるイメージとまったく異なる内面性を持つ、ギャップを魅力とするキャラクターもいる。では、そういった「顔の作り方」は現代だけのものかというと、おそらくそうではない。
——いつ頃からあるのか、は気になります。
起源の特定はなかなか難しいのですが、中世の絵巻を見ても、すでに同じような「キャラクターデザイン」があったのではと推測しています。写真のない時代、「この人はどんな顔だったか」は、伝承や逸話、あるいは子孫の顔から想像されていた。「和歌が上手な人だった」と言われれば、想像された「優雅な顔」があった。写真のない時代だからこそ、むしろデザインの自由度があったとも言えます。
——ただ、描かれた顔がその人の実際の外見と一致しているかは、また別の話ですよね。
そこは慎重に区別しています。信長の肖像画が実際の外見を正確に写しているかどうかではなく、どんな意図でどんな要素が強調されているのか——あくまでも表現の形として作品を分析することが目的です。内面的な特性と外見がどう結びついているのか、その連動のパターンを歴史的に探っていきたい。
——なるほど。そういった経緯もあって、このプロジェクトでは心理学の先生方との協働もあるんですね。
はい。URA(大学の研究企画・管理を担う専門職)の方が繋いでくださったご縁で、心理学の先生方と共同研究をすることになりました。たとえば、中世の絵巻に描かれた人物の顔を見た時に、現代の人がどういう印象を受けるか——「偉そう」「怖そう」「権威がありそう」といった印象を定量的に調査する心理分析の手法を、古い絵に応用してみる。意外にも、これまで前例がなかったそうなんです。
——現代人の写真を使った実験はあっても、歴史的な肖像画では、ということですね。
ええ。「この人は信頼できそうか」「危険そうに見えるか」といった印象を問う実験は現代の写真でならあるそうです。人間、「顔で判断するべきではない」と言いつつ、案外見た目でまずイメージを持ってしまう。選挙のポスターで候補者を選ぶ有権者が多い、というのも同じ話です。
——古い絵に心理実験の手法を当てはめるというのは、技術的にも難しそうですね。
はい。ただ、絵巻に描かれた人物の顔から現代人がどんな印象を受けるか、という調査自体は比較的やりやすい。難しいのは、その印象が「当時の人も同じように感じたか」の検証で、そこは慎重に区別しながら進めています。あくまで「こう描かれている」という表現の分析であって、その描写がその人物の実際の内面を正確に反映しているかどうかは、また別の問いです。どういう意図でどんな要素が強調されているのか——そこを丁寧に読み解いていくことがこの研究の肝だと思っています。
HMCという「実験農場」から科研費へ
——この研究、実は科研の前に3年間の学内プロジェクトがあったそうですね。
科研費は2025年度からですけれど、その前に3年間ありました。東大のヒューマニティーズセンター(HMC)という学内機関から、永井先生が研究資金をいただいて立ち上げたんですよね。
——お二人はそのHMCの段階から関わっていらっしゃるんですか。
はい。応募段階から関わってくださいと、永井先生に言われたはずです、確か。
出口先生とは大学院の比較文学比較文化コースで所属がご一緒で、とても興味深い研究をされる方だなと前々から思っていたのですが、共同で研究をする機会は、意外とありませんでした。それで、何かできたら面白いだろうなという願望が先にあったんですね。
出口先生は、近代文学における挿絵や口絵の研究をされています。文学作品の登場人物の容姿がどのように絵に表されるのかを分析されてきたので、研究の範囲を近現代に広げるにあたり、これ以上なくぴったりな方でした。梶谷先生は、育児の歴史についてのご研究もされていますので、江戸時代には容姿についての価値観がどんなものであったかという知見もおありなのではないかと思いまして。
——梶谷先生の主なフィールドは哲学ですが、今回のプロジェクトにお声がかかった経緯を詳しく伺いたいです。
まあ、僕はね、永井さんと仲良くしてたっていう以上の理由は多分あんまりないですね。
——本当ですか?
で、あとは僕が哲学だからっていうか、研究テーマも広くいろいろやっているタイプなので、「何かしら茶々を入れてくれるだろう」っていうぐらいだと思いますよ、差し当たりは。
これは誤解を解かないといけませんね(笑)。梶谷先生がいてくださることで、研究に広がりが持てたと本当に思っているんです。
——梶谷先生は東大ヒューマニティーズセンターの立ち上げをされたそうですが。
そうなんです。ヒューマニティーズセンターが設立された当初、「企画研究」と「公募研究」がありました。企画研究は運営委員会で話し合って決めるもので、複数部局の教員で協力して行います。公募研究は文字通り一般の先生たちから募集するもの、基本的には個人で行うものです。
永井さんは、公募研究をまず自分の関心のあるテーマから始めて、そこから複数で行う共同研究へと発展させた。それをさらに科研費のプロジェクトにまでしたのは、ひとえに永井さんの熱意によるもの。
やっぱりね、共同研究って、嫌がらずに頑張る人が、誰か一人は必要なんですよ。研究者みんながみんな、人のために書類を作って手続きをして、っていうことを引き受けるわけじゃない。めんどくさいんですよ。協力はしても自分からはやらないっていうのが普通なので。
幸いにも、私自身は、嫌だと感じたことはなかったです、念のため!(笑)。
——ビジネスの世界でもまったく同じです。部門横断で何かしようとなっても、大体の人にとっては面倒なことだし、フリーライダーも出てくる。本当にちゃんと頑張る人がいないと進まない。
科研費「挑戦的研究(萌芽)」という枠
——科研費のなかでも「挑戦的研究(萌芽)」という枠で申請されたんですよね。これは「萌芽」ですから、「芽」がこれから育つようにという期待を持って支援してくださるという枠なんですね。
はい。やはりHMCで3年という期限がありましたので、そこでできたご縁を何らかの形で繋いでいきたい思いがありました。それを実現する手段として、やはり候補の一つに科研費がありうるな、と。その中でも、一回の打ち上げ花火で終わるのではなく、継続性が期待される枠で採択されたい。
たとえば心理学の研究にしても、先にもお話しした通り、中世の肖像画を対象に実験するというのはありそうでなかったそうなんですね。開拓したら何か広がりがあるのでは、と思える分野でしたので、まさに「これだけで終わりたくない」というのに合うかなと思った区分でした。
それにね、だって文系でしっかり研究費取れるなんて、科研費しかないから。
「脇芽」が伸びる場所
——ご自身の研究のなかで、このプロジェクトはどんな位置づけですか。出口先生からお聞きしてもいいですか。
——脇芽。その心を教えてください。
僕自身の研究はだいぶ広がってしまっているので、脇芽の種みたいなやつがいっぱいあるんですけれど、思いも寄らないところから永井先生に声をかけられて、また脇芽が生えてきたみたいな感じなんです。
僕はもともと日本近代文学をやっていたんですけれど、東大に来た頃からほぼ美術にスライドしていて、今は美術の研究ばかりしています。文学——目に見えないもの、テキストの世界を、どうやってビジュアライズしていくかっていう点で、永井先生の研究と僕の研究は方向性が一致しているんですね。
その中で、「『顔』に注目して何か考えてみませんか」って言われたので、まあ、うん、それはいけるんじゃないかなと思って、普通に乗りました。
——順調に芽が出ているのかと思いきや、ちょっと難しさもあるとか。
HMCのイベントで一度お話をしたり、それをもとにブックレットにも文章を書かせてもらったんですけれど、その後は「ちょっと難しいな」とも感じていますね。
ブックレットには、文学作品をビジュアライズする時になぜか「顔が描かれないことがある」——あえて顔を描かないということについて書きました。人物が画面の奥側を向いていて顔がまったく見えないとか、あるいは顔を伏せたり、覆ったりしているとか。その「顔がない状態」というのが一つのアイコンになってるんだ、ということを話させてもらったんです。
——むしろ、顔は描かれない方のほうが分析しやすいということですか?
もっと言えば、その裏返しで、「顔が描かれてしまうと分析がすごく難しい」ということですかね。
というのも、僕の専門領域は明治時代なのですが、明治の絵って、特に浮世絵師が描くと、人の顔がどの絵も大体同じになっちゃうんですよ。もちろん、作品によって微細な違いはあるのですけれど、おなじ絵師による人物だとやっぱり顔がどれも似通っている。絵師が違っていても印象はけっこう似通っていて、「あ、この絵の描き手はあの人っぽいな」ぐらいのことはいえるんですけれど、そこから顔だけに限定してもっと踏み込んだことを言うのは難しい。
——では梶谷先生は。
僕はね、もう限界にさらされてる感じがありますね。「何ができるんだろう……」みたいな状態で。
——(笑)
永井さんが先ほど挙げてくれた、「江戸時代の子育てについての研究をしていると、人を育てる時に、子どもの見た目を気にする話が出てきたりするのではないですか」みたいなことを話したときがあったのかな。
それで江戸時代の胎教のこととか、調べたんですよ。そうしたら、「胎教で『論語』を読み聞かせると、外見も美しい子供が生まれてくる」みたいな発想があったらしいんです。今は、外見は遺伝によるところが大部分だっていう常識がもうありますし、胎教で例えばいい音楽を聞かせようとかは、おそらく精神的な部分に働くんじゃないかという発想からきてますよね。それに比べて、基本的に江戸時代の胎教は、性格的な部分だけじゃなく「容貌もいい子が生まれてくる」っていう発想なんですよね。
だけど、僕が少なくともさっと思いつくのはそれぐらいで終わり。もう発展性がなくて(笑)。
——それでまた別のことを。
で、いろいろあって、江戸時代の刑罰のマニュアルとかにたどりついたんですよ。江戸時代って、死刑にプラスして、「磔・獄門」とか、公の場にさらして恥をかかせるっていうジャンルの罰があるんですよ。容姿の問題と「恥」というテーマは深い関係がある。だったら死刑のことを調べようかな……みたいな感じで。だいぶ限界で頑張ってるのは分かってもらえたでしょうか(笑)。なかなか定まらないです、私は。
いやいや、梶谷先生の限界はまだそんなものではないと思ってるんですけれども(笑)。
「合わない」からこそ生まれるもの
——理系の共同研究プロジェクトだと、「データを取る人」「シミュレーションする人」「解釈する人」のように役割が分かれていて、上流から下流にプロセスが流れていくイメージがあります。それと比べると、今お聞きしている共同研究は、進め方がまったくちがいますね。
特に1年目は「自由になさってください」というスタンスでした。先生方にこう自由に、やりたいことやってくださいと。
——おのおの自由に研究するというスタイルで、「共同研究」は成り立つものなのでしょうか。
お互いがお互いのやってることを話して、そこで何かしらの刺激を受けられるといいな、という期待値でしたかね。ざっくり同じようなテーマを共有したうえで、それぞれの研究を伸ばしていけるといいなみたいな共同研究なので、研究者同士が手を組んでこれをやるぞ!みたいな、一般的なイメージとはちょっと違いますよね。
——梶谷先生の立場からは、この共同研究はどう見えていましたか。
僕は出口さんのような形で、自分がやりたいことについて勉強になるみたいなことはそんなにないですね(笑)。
ただ、こういう分野横断プロジェクトでもなければ聞けない話がいろいろ聞けるっていうのは、もう単純に楽しい。しかも自分が何かやろうと思ってないから、無責任に楽しいっていうのはある。
——「無責任に楽しい」。
で、もう一つありまして、自分が何かやっても結局何の形にもならないかもしれない。でも、ちょっとまとめて試しに発表してみたら、一応「面白い」とは言ってくれた、みたいなことがある。
こういう場だと、みんなね、なんだかなって思いながらも大目に見てくれるんですよ。
——優しさでしょうか。
優しさですよね。新しいことに挑戦しやすい場を提供してもらっていると思います。
芽が育まれる「土壌」みたいな感じですよね。赤玉土だけじゃダメで、いろんな土を混ぜて一緒にしておくと、何か新しい研究が生まれてくるかもしれないな~、というような。
「人から言われないとやらない仕事」が形になるとき
——出口先生は以前、このプロジェクトを「ぼんやりしている」と感じていらっしゃったとか。
最初はそう思ってたんですけれど、でも、この「ぼんやり感」がいいんだっていうのが、だんだん分かってきたんです。
たとえば僕は、先にもお話ししましたとおり、「顔が伏せられている問題」について話したり書いたりする機会をもらったわけですが、そういう、なんとなく自分では「こうかな」と思っていたようなことでも、たぶん一人だと論文を書くことにはならなかったと思うんです。もっと優先度の高い、先に書かなくてはならないテーマがいっぱいあるから。
ただ、このプロジェクトに加わらせていただいたことで、文章の形になった。実際に書けば何らかの成果が出るだろうとは分かっているけれど、誰かからつつかれないとやらないことって、研究者の頭の中には山のようにあるんですよね。
——雑誌や出版社からの依頼でも、よくありそうな話ですね。
そうなんですよ。「この人やこの作品について論文を書いてくださいよ」みたいな依頼が来ると、「えー、仕方ないなあ」とか言いながら考えたり調べたりし始めて、何とか形にする。
そして、場合によっては、それがいつの間にか自分の研究の大きな柱になっていったりする。この「『顔』プロジェクト」もそういう感じだなっていうふうに、僕にもわかってきたんです。
顔の「系譜」を作ってみたい
——ここで、出口先生から、永井先生に相談されたいことがあるとか。
今、口絵の画集を作っているんですけれど、前回のミーティングの時に「顔貌【がんぼう】表象を比べようかな」っていうお話をしたじゃないですか。明治・大正の口絵で顔がどう描かれてるのかを並べてみようかなっていう話。それについていま考えているのが、「顔」の系譜の可視化です。
美術って、文学よりも流派や系譜への意識が強いじゃないですか。たとえば歌川豊春が歌川派をはじめて、それを豊国が大きくし、みたいなやつです。本絵でも、狩野派とか四条派とか土佐派とか。その流派の系譜に、それぞれの絵師が描いた「顔」をつけてみたらどうかと思ったんです。
——絵師の系譜図に、この人が描いた「顔」を、それぞれ添えて見せてみるということですね。
水野年方ぐらいの世代だと、「やっぱり浮世絵だな」っていう感じがするんですけれど、年方の弟子の鏑木清方になると「あ、やっぱ清方の顔ってすごいなんか近代的な美人だな、もう江戸の浮世絵じゃないな」って感じるじゃないですか。それを、よくある系譜の中に「顔」をくっつけたら、どの時点で近代的な顔が出るのかが分かるんじゃないかと。
でも、美術史の方々から「そんなの邪道だよ」とか「違和感しかないよ!」って言われるんじゃないかと思って、ちょっと躊躇しているんですが。永井先生、どう思いますか。
違和感はまったくなく、むしろ、とても面白いと思いました。
もちろん、「顔」だけで判断していいかは検討の余地はありますが、顔だけ切り取ってみたらこういう傾向がありそうっていうのは、一つ面白い分析になりそうです。
それこそ、髙岸先生や鈴木親彦先生がされたような「顔貌コレクション」——絵巻などの顔だけ切り取って並べてみた、というものがあるので、それの明治口絵バージョンみたいなのができるかもしれない。情報学の中村覚先生にご協力いただいたら実践は可能そうです。むしろ「ないなら是非作ってください!」と言いたいです。
そうですか。そう言っていただけると、やってみようかなと思えてきました。
——今この場面が「共同研究」という感じがしますね。
そうです。こういう感じであれこれ話しながら、「あ、これ行けそうかな? じゃあその方向でやってみようかな」って、そんなふうに研究者どうし、おたがいに一つの方向に向いているわけではなくても、ざっくり大きな課題を共有して、自分の研究の脇芽がちょっとずつ伸びてるみたいな感じですかね。
これからの2年間に向けて
——3年の科研費で、2年目に入ったところですよね。残り2年、出口先生はどんな見通しをお持ちですか。
うーん、あんまりはっきりしたものがないんですよね(笑)。さっき言った通り、口絵の画集のなかに「顔」の系譜図を1コーナー作ってみようかなというのはありますね。それを作ってみてみないと、何がどうなるのかわからない。なんとなく、個別の絵師や流派によってかなり違うだろうなっていう見通しは立っているけれど、それを出した時に新しく何が見えるのかはまだ分かってない。ほかのアイディアもそうです。
でも、もし反応やいろんな意見をもらえたり、作業の中で新しく分かることがあったら、うまくいけばちょっとした論文にはなるかな、くらいのイメージはもっています。
——誰も見たことのないものができる可能性がある。
そうです。で、そういう萌芽的なアイディアを自由に放てる場は、やっぱりこういうところしかないので。たとえば「日本顔学会」に学会登録して、発表を申し込んでとか、こんな着想程度の段階では、まだそこまではできない(笑)。
そういう意味では、ここの共同プロジェクトの場があるのはありがたいし、可能性が広がるかもと思っています。
一応、私は顔学会に新年度から入会申請はしてみたんですけれど(笑)。
——いま手元で調べたら、本当に「日本顔学会」という学会があるんですね。初めて知りました。さて、梶谷先生の今後二年間の展望もお聞きしたいです。
まあ、もうね、頑張ります、という感じですね。最後まで何もできなかったらごめんなさいと先に言っておきます(笑)。
今年はだいたいこの方向で研究を進めます、くらいは言いたいですね。江戸時代の死刑のことも、ちょっと勉強し始めたら、やはり法制史なんかも絡んでくるんですが、これがめちゃめちゃ難しいんですよね。この研究班に法律史の先生とかがいたら教えてもらえると思うんですけど、いない、誰を頼ったらいいかもわかんないので。
——(笑)
あとは、別で今、取り組んでいる『重宝記』の研究に関連づけて、そこに化粧の指南とか、なにか容姿に関するマニュアルがあるなら、それを分析をするのもいいかな、とか。でも、『重宝記』の中にそんなマニュアルがあるかどうかもわからないので、まだこれからですね。
あとは他の先生方の研究を楽しみに、他の先生たちを励ましつつ、まあ自分はちょっと隠れるみたいな感じかなって。
研究は、完成品だけではない
——人文系の研究成果は、本や論文などの「完成品」として世に出すことが多いですよね。でも、こうしてお話を伺っていると、まだ何になるか分からない段階の葛藤や試行錯誤、人と人との関係のなかで、少しずつ何かが形を成していく過程があるんだなと思いました。
そうですね。何が見えてくるのか、2年目、3年目に変に小さくまとめるよりは、自由に広げてみた時に何らかの芽が出るのか出ないのかを、容易に結論を出すのではなく、考えていきたい。で、その芽が今後の開拓に繋がるものなら、もっと広がって畑になったらいいなとか。
まだ物差しすら、この世にあるかどうかもわかんないところに突っ込んでいくわけですからね。
でも皆さんがちゃんとしてるので、僕一人ぐらいは影に隠れて「あれっ、いたっけ?」みたいになっても大丈夫な人ではあるんですよ。
——いやいや、哲学者が法制史に足を突っ込んでどうなるのか、みなさん気になってますよ、きっと。
いや、まあね、何もならない可能性もあるんですけど(笑)。まあ、頑張ります。