ジンブン独学ノートの実践編では、実際の研究について紹介します。研究へのモチベーションから、どのように日々の調査が行われているのかまで、インタビュー形式でお届けします。

第五十五回となる今回のインタビューでは、名古屋大学大学院情報学研究科を拠点にAI倫理・動物倫理の学際研究に取り組み、動物倫理学会の立ち上げや行政・専門家委員会への働きかけを通じて社会制度の変革を目指す、竹下昌志さんにお話を伺います。

ロボットと論争——理系少年の原点

——本日はよろしくお願いします。竹下さんは現在、名古屋大学大学院情報学研究科を拠点に、AI倫理や動物倫理という非常に広範かつ尖った領域で活動されています。まずはその「原点」をうかがいたいのですが、もともとはバリバリの理系、エンジニア志望だったそうですね。

そうですね。もともと何か一つのことに執着して、底が見えるまで深掘りしないと気が済まないタイプではあったと思います。高校時代は、家から徒歩3分という近さだけで選んだ地元の高校に通っていたのですが、そこにあったロボットを作る部活動に没頭しました。単にコントローラーで操縦するラジコンのようなものではなく、プログラムを組んで自律走行させ、サッカーをするロボットで戦う【ロボカップジュニア】という大会に打ち込んでいたんです。

——自律走行ロボットを高校生が自作するというのは、当時としてはかなりハードルが高いですよね。

ええ、今振り返ってもかなり特殊な、いわば「異常な環境」でした。世界大会に出るような部活動で、この領域は個人戦ではなくチーム戦ですから、周囲のレベルがチームとして恐ろしく高かった。いわば「強豪チーム」のような雰囲気でした。部内には傑出した選手が何人もいて、チーム全体の水準が引き上げられていたんです。そこで学んだのは、プログラミングがいかに完璧でも、物理的な実体を持つロボットは「思い通りには動かない」という冷厳な事実でした。それがハードウェアの面白さであり、残酷なところでもあります。

——具体的には、どのような「残酷さ」に直面したのでしょうか。

本番直前の練習中、それまで快調に動いていた赤外線センサーが突然死んだり、練習環境と本番環境の違いで想定通りに動かないといったことが日常茶飯事です。照明の種類や磁場の強さ・方向が少し違うだけで、センサーの挙動がガラっと変わってしまう。接続端子の接続不良やケーブルの断線なんかも頻繁に起きます。持ってきていた予備パーツで修復するのですが、代わりのセンサーには微妙な「個体差」がある。同じ型番でも反応する閾値が誤差レベルで微妙に違うんです。だからまた数ミリ単位で角度を調整し、数値を書き換える……。若いうちに、論理(プログラム)だけでは制御しきれない「物質としての不条理」に徹底的に触れた経験は、私の物事の捉え方の根底にある気がします。運動神経がそれほど良くない自覚があったので、プログラミングという「自分の作ったものが勝手に動く様」を見るのは、何物にも代えがたい快感でもありました。

——その後、九州工業大学の工学部に進学されます。やはりロボットの道を極めるために?

はい。でも、そこで自分でも意外な壁にぶつかりました。私はロボットを組み上げながら、「なぜこのセンサーは光を受けると電圧が変わるのか」「その電気信号がどうやって論理に変換されるのか」という、もっと手前の物理的な「原理」が知りたくて電気電子工学を選んだんです。ところが、大学に入って専門的に学び始めると、その仕組みが意外なほどあっけなく解明されてしまった。

学部の一、二年で電磁気学や半導体の物性を学ぶと、「ああ、こういう物理現象が起きているから反応するのか」と、私が知りたかった謎が、数式によってあまりにもクリアに明文化されてしまった。その瞬間に、急に飽きが来てしまったんです。「自分が見ていた世界が狭すぎた。もっと興味関心を広げてみたい」と。学問自体やより複雑なシステムには、もっとずっと深い底があることも分かっています。そういう意味では、私の関心の持ち方が浅かったという自己認識のほうが正確かもしれない。でも当時の私は確かに、「次は何だ?」と手を伸ばさずにはいられなかった。

——知的好奇心が、まだ見ぬ別の世界へと滑り出していったのですね。

もっと底の見えない問い、例えば「心とは何か」「善さとは何か」という方向へ関心が動き始めた時期に、ちょうどディープラーニングのブームが重なりました。AIで頻繁に使用されるPythonという言語の使いやすさと、自分のPC上でAIが「学習」していく様に感動しました。それと同時に、私の人生を決定づける出会いがありました。Twitter(現X)での、ある「レスバ(論争)」です。

——SNSが哲学への入り口になったというのは、現代的な展開ですね。

当時、ネット上で「フェミニストはアイスクリームを食べるべきではない」という、一見すると突飛で過激な主張を見かけたんです。最初は「何を言っているんだ?」と思いましたが、気になってその背後にあるロジックを追いかけてみると、そこには驚くほど一貫した論理が横たわっていました。

乳製品を生産するために、雌牛を妊娠・出産させ続け、強制的に搾取する構造。もし、私たちが人間同士の性差別や人種差別を否定するならば、なぜ「人間以外の動物」に対してだけ、これほど残酷な搾取が許容されるのか。そこに合理的な線引きはあるのか。もし「人間だから」としか答えられないなら、それは循環論法に過ぎないのではないか。その指摘が、私の脳天を直撃したんです。

次回はピーター・シンガーとの出会い、そして北海道大学CHAINでの越境的な学びについて伺います。