ジンブン独学ノートの実践編では、実際の研究について紹介します。研究へのモチベーションから、どのように日々の調査が行われているのかまで、インタビュー形式でお届けします。
第六十回となる今回のインタビューでは、防衛大学校での12年を経て国際日本文化研究センターにたどり着き、平安・鎌倉時代の貴族が漢文で書いた日記(古記録)を、歴史資料ではなく「文学」として読み解くことから「人はどうすれば幸福になれるのか」を考える、中丸貴史さんにお話を伺います。
答えの出ない世界が、面白い
——平安の日記を読む視点で、現代の社会を眺めると、どんなふうに見えるんでしょうか。
現代の日本社会に目を向けると、なんでみんな8時半に出勤するのか、僕は未だに理解できないんですよ。全員が満員電車に乗るのはすごく非効率的だと思うんです。ずらした方が読書もできるし、痴漢に間違えられる危険もない。メリットしかないのに、みんな汗をかいて、嫌な思いをしながら乗っているじゃないですか。
——たしかに。現代社会の我々も、習慣に囚われていますよね。
平安の大臣の視点を持っている僕からすると、「暇だね、現代人は」と思うんですよ(笑)。そんな僕の、最近のもっぱらの関心事は、会議が長いことですね。デジタル化したらかえって会議資料が増えて、それで要領を得なくなって会議が長くなって、「暇だね」と。平安の大臣が反論できない代わりに、現代人を揶揄してます(笑)。
——日記を通じて、現代を相対化する視点まで見えてくるんですね。
それが楽しくて。最近は、職場で「なぜ会議が長いのか」をテーマに、記録を取って、定量的に分析し始めたんですよ。平安朝の日記を読むのと同じ感覚で。まだ始めたばかりですけど、会議ってほとんど無駄だなと(笑)。
ただ、場合によっては、平安時代の大臣にも、ある種「無駄だなあ」とわかってやっていた人がいるんじゃないか、という感じもしてきています。
——もしかして、平安時代の日記を読み解いて「平安の会議も長かった」と言っている研究者は、すでにいるんですか。
いや、そういう視点では、たぶん論文を書かないんですよね、学者は。「長かった」というのは価値判断なので。もちろん長い会議はあるんだけど、「平安時代の会議を短くしよう」という視点では誰も読まない。「この時代、この儀式にはこれだけ時間がかかった」と記述するんです。
だから逆に、「長いか短いか」というのは、新しい読み方ですよね。そういう視点で読んでいけば、日記に痕跡があるかもしれない。
——なるほど。「この書き手、『会議、長いな』って思って書いているな。退屈そうにしているな」とか。
そうそう。研究の入り口って、意外とそういうところだったりするんですよ。僕が参加している共同研究の会合で、ちょうど昨日、「この漢詩は面白いか、つまらないか」という観点から議論したんですけど、「でも、論文に『面白い』とは書けないよね」という話になって。
でも、最終的に論文の形にするとしても、入り口は「面白い」という気持ちですよね。研究モードになると頭が硬くなるんだろうな、と思いますけど。
——文学研究は、主観的な「面白い」から始めるからこそ面白いんでしょうね。
僕からすれば、全部が価値判断ですしね。たとえば、平安時代の男性貴族の日記は、歴史家でも「面白い」と思っている人はあまりいないし、日記文学と比べたら「無味乾燥な記録」だ、と言われるんです。
でも、僕はその「無味乾燥」というところがすごく引っかかって。日記文学のように感情がはっきり出てこないけれど、ちゃんと出てくる瞬間があるんですよ。「あ、怒ってる」とか。実資なんかはそこが面白いですね。道長や周りの人を痛烈に批判したりする。最初は冷静に書いていたのに、最後の方で急に怒っていたりする。
現代の会議でも一緒ですね。みんなあまり感情を出さないんですけど、見える瞬間がある。だから僕、つまらない会議ほど人の顔を見てますね(笑)。どういう顔をしているか、わずかな違いが出てくるから。
——平安時代の日記を読むときと同じ視点で、会議を観察している(笑)。
イライラしているとか、怒っているとか、わかるんですよね。つまらない会議こそ人を観察する。「なんでこの人たち、こんなことを何時間もやってるのかな」という観点で見ると、人間模様が面白い。会議の途中でトイレに行くときも――本当にトイレに行きたいときはもちろん、飽きちゃったりしたときにもトイレに行って気分転換をするんです――誰がどんな「内職」をしているかをしっかり見ていきますからね(笑)。





