ジンブン独学ノートの実践編では、実際の研究について紹介します。研究へのモチベーションから、どのように日々の調査が行われているのかまで、インタビュー形式でお届けします。
第六十三回となる今回のインタビューでは、ヴァーツラフ・ハヴェルの戯曲をはじめとするチェコの不条理演劇を研究し、現代チェコ文学の翻訳も手がけている、豊島美波さんにお話を伺います。
言葉が武器になるとき
——どんな抵抗の方法だったんでしょう。
たとえば、当時のチェコの人々はロシア語も読み書きできたので、ロシア語で街の壁や窓に皮肉めいたジョークを書くんです。それから、街の道路標識を全部白く塗りつぶしてしまう。当時はGPSなんかありませんから、ソ連から来た戦車が道に迷ってしまう。
——抵抗、と聞いたときに思い浮かぶ方法とは、だいぶ違いました。命がけなのに、ユーモラスというか。
衝撃を受けましたね。武装した兵士と戦車が何台も攻め込んできて、もう死ぬかもしれないという状況なわけです。そんな状況で、こんな機転の利いた反応って普通できないよな、とびっくりして。
それで、チェコの人にとって、言葉というのは単なる表象ではなくて、実力を持った「武器」にもなり得るものだったんだ、ということを実感したんです。チェコの人にとって、言葉とはどういうものなのか——それを追求したいと思って、文学を専門に選んだ、というのがきっかけですね。
——それも、文学作品きっかけではなく「写真集」が入り口だったというのが面白いですね。
そうですね。生粋の文学専門みたいな感じで進んでこなかったので、ちょっとした回り道だったかもしれません。
——教養学部を卒業したあと、東大の修士課程に進学されました。しかもチェコのカレル大学への留学、という決断をされている。大きな転機だったと思いますが、どういった経緯があったのかお聞かせください。
大学院に進むこと自体はそんなに迷わなかったんです。まず、研究を続けたいなという思いが強かった。せっかくなので留学もしてみたかったですし。
ところが、東大は、チェコの大学と留学協定を結んでいなかったんですね。そんな中、見つけたのがチェコ政府奨学金という制度で、チェコ政府と日本政府の間で結ばれた交換留学枠でした。その奨学金の応募資格に「修士課程以上」というきまりがあったので、「念願の修士課程に進んだし、やっと留学ができる!」という感じでした。
最初の二年間は東大に所属しながら交換留学生として学んだのですが、その間に現地の教育方法がすっかり気に入ってしまって、もう一回、現地の修士課程に入学し直しました。
——わざわざ入学しなおしたんですね。どうしてそんなに好きになっちゃったんでしょう、現地の教育が。
対話中心の教育方法が、厳しいながらもとてもよかったんです。試験の方法も、基本的に口頭試験なんですよ。慣れないうちはまともにスピーキングなんてできないし、そもそも大学の先生に口頭でテストされる機会なんてなかったので、おどおどしていました。
でも、だんだん対話の場数を踏んでいくと、知らなかった知識をその場で補完してもらったり、「こういうふうに考えてみたらいいんじゃない?」と助言をもらって、考えがその場で発展したりする。これが、大学教育としてとてもいい形だなと思ったんですよね。
——レポートやテストで評価される日本の大学とは対照的ですね。チェコの大学では、「あなたはこういうことが考えられるなら、この先こうやってみたら」と、その場で道が広がっていく。
脱線するのも、それはそれでいい、みたいなところもありました。「人前で話すのも、もしかしたら好きかもしれない」と思えるようになったのは、そういう授業形態のおかげかもしれないです。
——学部時代は迷っていた研究テーマも、留学中にだんだんと固まってきたそうですね。今の豊島さんの研究のキーワードである「演劇」も、留学中に見つけたとか。
カレル大学で、演劇をやる授業を取ってみたんです。外国人でチェコ語を勉強している人向けの選択授業で、みんなでセリフを覚えて、劇作品を作ろう、というような内容でした。そういった機会を通じて、チェコの演劇の魅力にだんだんと気づいていきました。
——演劇も、ひろく文学研究に含まれるジャンルですが、身体を通じて言葉に入っていくという点で独特ですよね。
そうかもしれないですね。自分の中に外国語がダイレクトに入ってくる感覚を、セリフを覚える中で感じていました。セリフって、ただ言うだけではなく、自分の気持ちや動作とリンクさせないと覚えられない。だから、外国語をより深く理解しようとして、自分の中に新しい回路ができるみたいな感覚がありましたね。
——豊島さんのチェコ演劇研究のキーワードとして、「不条理演劇」そして「ヴァーツラフ・ハヴェル」が出てきます。ハヴェルは、日本だと「元チェコ大統領」という紹介が先に来ますよね。
ヴァーツラフ・ハヴェル(1936-2011)は、元々は劇作家として知られていた人なんです。彼のキャリアも、最初から政治家を目指していたわけではない。その点では、元々はコメディアンとして知られていたウクライナのゼレンスキー大統領を思い出しますよね。初めはエンターテイメントの世界で知られていて、民衆に必要とされて結果的に政治家になった、というストーリーが似ています。
——ハヴェルは若いときから、演劇に本気で取り組んでいたそうですね。
ハヴェルが30代ぐらいのとき、チェコの60年代カルチャーには大きな変化が起きていました。当時社会主義陣営に属していたチェコスロヴァキアでは、従来検閲が厳しく、公式に認められた社会主義リアリズムという芸術形式でしか作品を書いてはいけなかった。「この英雄はこんなにすごかったんだ」ということしか書けなかったのです。それが、1950年代後半からソ連で検閲緩和が起こったことをきっかけに、人間の小ささに目を向けたり、英雄が実は英雄らしくなかった話が書けるようになる時代になっていったんです。
そんな中で、チェコの演劇も、いろいろな形で新しい道が開けていきます。チェコでは、演劇が社会に最も近いエンターテイメントでした。
——演劇が一番社会に近い、というのはちょっと意外です。現代の日本社会で生活していると、観劇を趣味にするのはハードルが高い、というイメージがあります。映画やドラマの方が、日常的に見る機会が多いし、社会に近いのでは?と思ってしまいますが、どうでしょう。
文化的な違いもあるのかもしれないですね。チェコでは、今でもプラハを歩くと、小さな劇場があちこちにあって、演劇を見に行くことは想像以上に気軽だったりします。そういった劇場の中でも、ハヴェルが劇作家として働いていたナ・ザーブラドリー劇場は、60年代にハヴェルの作品をたくさん上演していて、当時のチェコ演劇の中心的な存在でした。観劇に来ていたのも若い学生たちが多くて、演劇が終わってもロビーで夜中までお酒片手に喋っていたそうです。
そういう小さい輪から、社会がちょっとでも変わっていけばいいな、というのがハヴェルのコンセプトでもありました。プラハはそんなに大きな都市ではないので、劇場で知り合った人どうしで仲良くなって、また次の劇場でつながりが増えて……ということも多かったようです。
最後は、社会主義体制下で不条理演劇が果たした役割と、豊島さんが生き方として選んだ「二重の距離感」について伺います。







