ジンブン独学ノートの実践編では、実際の研究について紹介します。研究へのモチベーションから、どのように日々の調査が行われているのかまで、インタビュー形式でお届けします。

第四十五回となる今回のインタビューでは、東アジア海域における捕虜や移動する人々の実像を多言語史料から解き明かす新進気鋭の歴史学者、日本文化の研究を支える国際拠点である国際日本文化研究センターの特任助教の劉洋さんにお話を伺います。

歴史の「間」を記述する ― 捕虜の実態解明とデジタルによる可視化

——そこまでして劉さんが追い求めたテーマとは、一体どのようなものだったのでしょうか。

14世紀から17世紀の東アジア海域における、拉致された人々、すなわち「捕虜」の研究です。

近年のヨーロッパの歴史学では、自由と不自由の二元論ではなく、その間にあるスペクトラム(連続体)としての移動に注目が集まっています。しかし、その議論の多くは大西洋の黒人奴隷貿易や地中海に限定されており、アジアの視点が決定的に欠けていました。

私は、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)などで日本に連れてこられた朝鮮の人々や、倭寇に拉致された中国の人々の足跡を辿りました。彼らは、単なる「悲惨な被害者」としてだけ存在していたわけではありません。

——具体的には、彼らはどのような生を送っていたのですか。

これまでの研究は、ナショナリズムの観点に偏りがちでした。韓国の文脈では「いかに悲惨な目に遭ったか」が強調され、日本の外交史の文脈では「いかに文明的に扱われたか」というポジショントークになりやすかった。

しかし、当時の宣教師たちが残したイエズス会報告などの一次史料を丁寧に読み解くと、異なる姿が見えてきます。例えば、日本に拉致されて数年経ち、自由の身になった後でも、あえて帰国を選ばず日本社会に同化した人々が多くいました。

ある中国人の例では、釈放されて7年経っても平穏に暮らしていたのに、豊臣秀吉が再び朝鮮へ出兵する際、「通訳として徴用されるらしい」という噂を聞いて、初めて「自分は中国人だ。捕まる前に逃げなければ」と帰国を決意しています。

つまり、彼らにとってのアイデンティティとは、現代の私たちが考える「国民」という固定的なものではなく、置かれた状況に応じて変容する極めて流動的なものだったのです。

——「国家」という枠組みからこぼれ落ちる、個人の生の記録ですね。

その通りです。私は彼らを記述する際、あえて「スレイブ(奴隷)」という言葉を避け、キャプティブ(捕虜、被拘束者)という言葉を使いたいと考えています。欧米的な奴隷制度の概念をそのまま東アジアに当てはめると、当時の実態を見誤る恐れがあるからです。

もちろん、史料の少なさという壁はあります。日本の学界では「実証性が足りない」という批判を受けることもあります。しかし、私は社会学や人類学の理論、そしてエージェンシー(主体的力量)という概念を導入することで、断片的な記録から当時の人々の感覚を復元しようとしています。

——今後の展望として、どのような野望をお持ちですか。

まずは5年以内に、この博士論文をベースにした書籍を欧米の主要な出版社から刊行すること。そして、東アジア海域における不自由な移動者たちのデータベースを構築したいと考えています。

現在、欧米の学者が中心となってアジアの奴隷データベースを作成していますが、どうしても西洋側の史料に偏っています。私は、日本語の古文書や中国の記録を掘り起こし、誰でも検索できるオープンなプラットフォームを作りたい。そこにデジタル・ヒューマニティーズの手法を取り入れ、地図上で彼らの移動を可視化できれば、九州などの各地に残る「唐人」の伝承も、より確かな歴史的裏付けを持って語り直すことができるはずです。

——劉さんご自身の移動の経験が、境界を生きる人々への温かな眼差し、そして学問的な厳格さと結びついているのを感じます。

ありがとうございます。私自身もまた、偶然に流され、あるいは自ら道を選びながらここまで来ました。かつての捕虜たちもそうであったように、移動の先にある「間」の豊かさを、これからも探究し続けていきたいと思っています。