ジンブン独学ノートの実践編では、実際の研究について紹介します。研究へのモチベーションから、どのように日々の調査が行われているのかまで、インタビュー形式でお届けします。

第四十五回となる今回のインタビューでは、東アジア海域における捕虜や移動する人々の実像を多言語史料から解き明かす新進気鋭の歴史学者、日本文化の研究を支える国際拠点である国際日本文化研究センターの特任助教の劉洋さんにお話を伺います。

学問的ポジショニングの転換 ― 西洋史からアジア海域ネットワークへ

——念願の東京大学、文科三類へ。入学当初から歴史学を志していたのでしょうか。

実は、最初は経済学部に行こうと思っていました。中国的な価値観から、ビジネスを学んだ方が将来的に安泰だろうと。しかし、東大特有の進学選択(通称:進振り)という制度が、私の進路を大きく変えました。

教養学部でさまざまな授業を受ける中で、自分の数学的センスのなさに気づかされたんです。しかも、経済の授業は可しか取れなくて、経済学部に向いていないことを知りました。そこから国際政治などの専門を選ぼうとしましたが、行くには高い点数が必要でした。点数を取るために、高得点が取れる所謂「楽単」を狙う日々で、「これは自分の進むべき道ではない」と自覚しました。一方で、以前から関心のあった歴史の授業は非常に面白かったのでした。歴史学なら進振りの点数を過度に気にせず、自分の好きな研究に没頭できると考えて、西洋史学研究室への進学を決めました。

——西洋史の中でも、特にスペイン史に注目された理由は。

きっかけは、高校時代の友人にメキシコ人がいたことです。彼とはアニメという共通の趣味で仲良くなったのですが、彼の母語であるスペイン語に興味を持ち、独学を始めました。大学でも第二外国語として選択し、さらに学びを深めたいと思ったのです。

当時の東大西洋史研究室には、スペイン史を専門とする先生はいませんでした。指導教官だった高山博先生は中世史の権威でしたが、学生の自主性を尊重してくださる方で、テーマを押し付けることはありませんでした。そこで私は、近世イベリア半島におけるユダヤ人差別問題を、実証的に研究し始めました。

——指導教員が専門外であっても、研究は成り立つものなのですか。

歴史学にはランケ以来の厳格な方法論があります。史料をどのように収集し、解釈し、論理を組み立てるか。その基礎体力さえしっかりしていれば、テーマ自体は自由であっても成立します。むしろ、専門外の視点から「ロジックが甘い」と指摘されることが、研究の質を高めてくれました。

その後、院進を考えたとき、ここで人生の大きな転換期を迎えます。結婚した妻(イギリス文学専門)がオックスフォード大学へ留学することになり、私も一緒に渡英することを決めたのです。

——ケンブリッジ大学の修士課程への留学ですね。そこでの生活はいかがでしたか。

非常に刺激的でしたが、同時に自らのアイデンティティを突きつけられる場所でもありました。修士課程に入ってすぐ、指導教官からこう問われたんです。

「君は中国人として日本で学び、今はイギリスにいる。将来、日本の大学で西洋人が教えるならともかく、中国人の君が純粋なヨーロッパ史を教えるポストがあると思うか。君にしかできない、アジアの視点を取り入れた研究があるのではないか」と。

それは、私にとって衝撃的な問いでした。それまでは「自分の好きなことを研究して何が悪い」と考えていましたが、グローバルな研究の世界で生き抜くためには、自分自身の立ち位置、つまりポジショニングが不可欠だと気づかされたのです。

そこで目を向けたのが、マカオを中心とした大航海時代のネットワークでした。ここなら、私が読解できる漢文、日本語の候文(そうろうぶん)、そしてスペイン語やポルトガル語の史料をすべて活かすことができる。

——ご自身の強みを最大限に活かせる領域を見つけられたのですね。しかし、博士課程ではケンブリッジからオックスフォードへと移籍されています。これは珍しいケースではないでしょうか。

ケンブリッジでの博士課程一ヶ月目に、研究計画を大幅に変更しようとしたことが原因です。当初は修士課程の流れで植民地支配の歴史を考えていましたが、より深く掘り下げたいテーマが見つかってしまったのです。しかし、ケンブリッジの事務的な制度上、入学後の大幅なテーマ変更は認められませんでした。

普通ならそこで妥協するのでしょうが、私は「それなら退学します」と。すぐにオックスフォードのアジア学部の先生に連絡を取り、自分のやりたいテーマをぶつけました。幸い、すぐに入学合格をいただくことができ、翌年にはオックスフォードで新たな研究をスタートさせることができました。

最後は今後の展望について伺います。