ジンブン独学ノートの実践編では、実際の研究について紹介します。研究へのモチベーションから、どのように日々の調査が行われているのかまで、インタビュー形式でお届けします。

第四十一回となる今回のインタビューでは、中国近現代文学を専門とし、作家・張資平の作品を「科学」と「身体」という独自の視座から読み解く、祝世潔さんにお話を伺います。

距離が生む客観性と現代への問い

——なるほど。単なる通俗小説として片付けるのではなく、当時の知識人が直面していた「科学」や「近代」の問題系として読み解くわけですね。

その通りです。また、彼を研究する上では、日本という場所で研究することの意義も大きかったと思います。

張資平は、日中戦争期に日本の傀儡政権(汪兆銘政権)の下で文化活動に関わったため、戦後の中国文学史では長らく「漢奸(売国奴)」として断罪されてきました。そのため、中国国内では彼の作品を純粋なテクストとして分析することが難しく、政治的な評価が先行してしまう傾向がありました。

しかし、日本であれば、そうした政治的なレッテルから一旦距離を置き、彼が同時代の日本文学から何を吸収し、どう表現したかという文学的な分析に集中できます。

——物理的にも心理的にも距離を取れる日本だからこそ、見えてくるものがあったと。

はい。彼と同じ「日本に留学する中国人」という立場に身を置くことで、自分と重ね合わせながら考えることができるのは大きかったですね。

それに、資料へのアクセスという点でも日本は有利でした。彼が日本留学時代に何を読み、どの新聞小説に影響を受けたか、といった具体的な証拠は、日本の図書館やアーカイブに豊富に残っていますから。

一方で、もどかしさもありました。張資平は客家(ハッカ)の出身なのですが、私は中国に帰って現地調査をすることが十分にできませんでした。彼の日記などは散逸してしまっているため、彼の一族や出身地である広東省の梅県を訪ねて、その文化的背景をもっと肌で感じたかったという思いはあります。

——研究を通じて、1920年代から30年代の中国文学における「個」や「身体」の扱いはどのように変遷していったとお考えですか。

張資平たちが活躍した1920年代は、中国文学において「個」の発見が叫ばれた時代でした。「私」とは何か、個人の感情とは何かを突き詰めることが、近代化への第一歩だと信じられていました。

しかし、それは長くは続きませんでした。国内では軍閥による抗争が激化し、やがて戦争へと突入していく中で、「個人の恋愛や内面を掘り下げること」は、「利己的である」「時代遅れである」と批判されるようになります。文学には、個人の悩みよりも、社会の変革や革命への奉仕が求められるようになったのです。

——「私」を語ることが許されなくなった時代の中で、張資平の恋愛小説はどのように位置づけられるのでしょうか。

彼の作品は、ある種「時代の徒花(あだばな)」だったのかもしれません。しかし、彼が描こうとした「科学的な眼差しで見つめられた身体」や、社会の要請と個人の欲望の間で引き裂かれる自意識のあり方は、現代の私たちが抱える問題とも深く通底しています。

「恋愛」という極めて個人的な営みが、実は社会的な制度や、医学的な言説によって管理されていること。自分の身体でありながら、それが自分の意志だけではどうにもならないという感覚。これらは、現代社会における身体論やジェンダーの問題にもつながる普遍的な問いです。

——まさに現代的な課題ですね。今後は、どのようなテーマに取り組まれる予定ですか。

これからは「身体」「病(やまい)」そして「女性」という3つの軸で研究を展開していきたいと考えています。

張資平の研究でも触れましたが、文学の中で「身体」がどのように描かれ、認識されてきたのか。そして、それが「病」という異常事態においてどう変容するのか。これは文学だけの問題ではなく、人間存在の根本に関わる哲学的な問いでもあります。

私の研究関心はよく「発散しすぎる」と先生に叱られるのですが(笑)、好奇心の赴くままに広げた風呂敷を、少しずつ「人間とは何か」という大きな問いに向かって収束させていければと思っています。

——「発散」は研究者の特権でもありますから(笑)。「ジブンジンブン」でも、「病」を通じて社会と身体の関係を考えている社会学者にインタビューしたことがあります。祝さんの視点は、そうした現代的な身体論とも強く響き合うはずです。

ありがとうございます。ぜひその方とお話ししてみたいです。文学研究はどうしても過去のテキストの中に閉じこもりがちですが、そこで描かれた人間の苦悩や身体への眼差しは、今の私たちが直面している問題と地続きです。

過去の作家たちが「個」と「社会」、「心」と「身体」の葛藤をどう言葉にしようとしたのか。その足跡を辿ることで、現代を生きる私たちが自分自身を理解するための、新たな「外部の視点」を提供できればと考えています。

——かつて日本語という「外部」を通して中国文学を再発見された祝さんが、今度は私たちの身体や社会を見つめ直すための視座を与えてくれるのですね。今後のご活躍、そして「発散」する好奇心の行方を楽しみにしております。本日は長時間にわたり、貴重なお話をありがとうございました。

こちらこそ、自分の歩みを振り返る良い機会になりました。ありがとうございました。