ジンブン独学ノートの実践編では、実際の研究について紹介します。研究へのモチベーションから、どのように日々の調査が行われているのかまで、インタビュー形式でお届けします。

第六十三回となる今回のインタビューでは、ヴァーツラフ・ハヴェルの戯曲をはじめとするチェコの不条理演劇を研究し、現代チェコ文学の翻訳も手がけている、豊島美波さんにお話を伺います。

ドヴォルザークからチェコへ

——本日はよろしくお願いいたします。豊島さんはチェコ文学の研究者でいらっしゃいますが、子どものころから「将来は研究者になりたいな」という予感はありましたか。

高校生までは、お医者さんになろうかなと思っていました。小さい頃に喘息気味だったこともあって、人体のしくみに興味があったり、病院に行ったときの安心感も好きでしたね。そういうこともあって、医師になりたいという夢がずっとありました。

——現在のご専門分野である、チェコに興味を持ったのはいつ頃だったんでしょう。

明確に覚えているのは、14歳ぐらいのときです。学校の部活でオーケストラに入っていました。

——何の楽器を演奏されていたんですか。

ヴィオラです。オーケストラでは、チェコ出身の作曲家・ドヴォルザークの曲をやることが多くて、音楽のほうからチェコに興味を持ち始めました。

——ドヴォルザーク、私も好きです。音がかっこいいですよね。でもちゃんとキャッチーで、ポップでもある。

そうなんです。なんというか、釘付けになる感じがしますよね。それでドヴォルザークの音楽がすごく好きになって、彼の伝記を読んでみたんです。彼自身のことや、作曲の背景を知りたいなと思って。

ドヴォルザークが生きていた時代は19世紀で、当時、まだ「チェコ」という国はありませんでした。「どうしてこういう曲を作ったのかな」と理解するうえで、チェコそのもののことを知りたい気持ちが強くなっていきました。それで、チェコの歴史や文化に関する本を探して、読むようになりました。

——チェコの歴史は、学校の授業にはあまり登場しない印象があります。ご自分でどんどん調べて、読んでいったんですね。

そうですね、習わないと思います。世界史の授業に登場するのは、ドイツやフランス、イギリスなどのヨーロッパの国々がメインですし、ヨーロッパ史とは言っても本当に大国中心でしかない。

私たちはいつも、大国視点のストーリーで歴史を学んでいるけれど、チェコ側から見たときにしかない面白さがあるなと思ったんです。そこから本当に、チェコと名のつくものがあればとりあえずスクラップしておく、チェコマニアみたいになっていきました。

——子どもの頃から、本を読んだり調べたりする習慣のあるお子さんだったんですか。

両親は研究者とかではないですが、家族で図書館に行く時間はあったかなと思います。

それから、「外国」という存在そのものに、もしかしたら元々興味があったかもしれないです。

——何かきっかけがあったのでしょうか。

私は出身が横浜市なんですが、当時通っていた学校がたまたま、外国ルーツの子どもが多い学校だったんです。学年の10%くらいは外国から来ている子がいる、という感じで、当時としては多いほうだったと思います。それから、「国際理解教室」のようなプログラムで、毎年違う国の人が来てくれる機会もありました。例えば、ハンガリー出身の人が来て、ハンガリーの話をしてくれたことがあったり。だから、「あまり知られていない外国に、なんとなく興味がある」という背景があったかもしれないですね。

——進路を選ぶとき、医学部かスラヴ研究か、ギリギリまで悩まれたんですよね。

お医者さんって責任ある職業だし、感謝もされて、それはそれで素晴らしい人生だと思ったんですが、逆に言うと「私以外にもこの職業に就きたい人、向いている人はたくさんいるな」という思いもありました。

そんな中で、チェコに興味を持ったというのは、運命なんじゃないかと思って、とりあえずやってみようと決めました。進路も、なるべくスラヴ地域のことが学べそうな学部・学科で、と考えていました。

——さて、高校を卒業後は、東京大学に進学されます。1~2年生の前期教養課程を経て、3年次の「進学振り分け(現:進学選択)」で、教養学部の中の「ロシア東欧研究コース」に進まれたということでした。「ここでならチェコの研究ができる!」という予感はありましたか?

それが、残念ながら当時、東大には、チェコのことを専門にしている先生がいなかったんです。今、私が所属している「現代文芸論」というコースには、チェコ文学研究者の阿部賢一先生がいらっしゃるのですが、当時はまだ着任前でした。

——文系あるあるですね。ご自身のやりたいことにドンピシャの先生がいるとは限らない。

とはいえ、ロシア東欧研究コースは、ロシアか東ヨーロッパに含まれる地域のことなら何をやってもいい、ということではあったので、チェコの研究自体はできる形になっていました。

——ロシア東欧研究コース、進学されてみていかがでしたか。

ロシア関係の授業が多かったですね。今から考えると、もうちょっとバランスよく学べてもよかったかもな、と思いますが。でも、語学を集中的に勉強するシステムだったのは、とてもよかったですね。

地域文化研究の各コースは、その地域の言語で卒業論文を書くというきまりがあります。私も卒業論文はロシア語で書きました。

——卒業論文をロシア語で! 一定のボリュームの論文を書けるようになるには、かなり勉強しないといけませんよね。

学部のときに一度、外国語を猛勉強しておいてよかったと思います。後にチェコへ留学したとき、チェコ語で研究したり発表したりということへの抵抗がなかったので、それはとてもありがたかった。ロシア東欧研究コースは学生の人数が少ないので、授業も手厚いんです。私の学年は5人だったんですが、それは「すごく多い」という年だったみたいで(笑)。

——5人で「多い」なんですね(笑)。となると、授業によっては自分一人しかいない、なんてこともあるのでは。

そんなときはもうマンツーマンですよね。論文作法の授業で、ネイティブの先生に「そんな表現はロシア語にありません」とか言われながら適切な言い回しを模索したり、みっちり指導されるわけです。なんとか言い換えなきゃ、ついていかなきゃ、と食らいついていましたね。

——教養学部の卒業論文では、どんなテーマを書かれたんですか。

チェコ出身の作家、ミラン・クンデラ『冗談』(1967年発表)の喜劇的な要素について、という題材で書きました。

——ミラン・クンデラ(1929-2023)といえば、『存在の耐えられない軽さ』がベストセラーとして知られていますね。ところで、チェコへの興味は音楽から始まったわけですが、専門としては文学を選んだ。何か背景があったんでしょうか。

専門を決めるのに苦労したんです。何をやってもいい学科だったので、逆に迷ってしまって。

音楽はずっとオーケストラサークルで続けていたので、趣味として持っておきたいという思いもありました。楽曲や作曲家の背景を調べるのは好きでした。

——そんな中、学部4年生のときに転機があったそうですね。

今の指導教員である、阿部賢一先生が東大に着任されたんです。「ボヘミア文学論」という授業で、一冊の写真集を見せてくださいました。

1968年のチェコスロヴァキアの民主化運動、いわゆる「プラハの春」を弾圧しようと、ワルシャワ条約機構軍の戦車が街に侵攻するというできごとがありました。そのときの市民の抵抗の様子を、ジョセフ・クーデルカ(1938-)という写真家が撮影していて、その写真集『プラハ侵攻1968』に収められました。

その写真集で印象的だったのが、市民たちの抵抗のしかたでした。

次回は、阿部賢一先生の授業で見た写真集に何が写っていたのか、そしてプラハのカレル大学に留学し直すまでを伺います。