ジンブン独学ノートの実践編では、実際の研究について紹介します。研究へのモチベーションから、どのように日々の調査が行われているのかまで、インタビュー形式でお届けします。
第四十九回となる今回のインタビューでは、関西学院大学大学院で社会学を専攻し、システムの設計(アーキテクチャ)とそこから零れ落ちる身体的抵抗の関係を鋭く考察する、XXさんにお話を伺います。
阿蘇の山中から「正しさの外部」へ
——今回は、関西学院大学大学院で社会学を専攻されているXXさんの歩みを伺いたいと思います。まずは、研究者としての原点とも言える幼少期の風景からお聞かせいただけますか。
よろしくお願いします。私が育ったのは、熊本県の阿蘇地域、山深い場所でした。周囲にいわゆる「サラリーマン」が一人もいない、少し変わった環境で育ったことが、私の原点かもしれません。父は牛を育てながら農業大学校という公立の専修学校で畜産学を教える、研究者と実務家を兼ねたような人物でした。母はかつてエンジニアで、親戚も教師や自営業者ばかり。そんな環境にいたせいか、「ふつうの仕事」という枠組みをあまり意識せずに育ちました。
——山深い地域で、教員や経営者に囲まれた生活。子供の頃は、どのようなものに惹かれていたのでしょうか。
当時の私の夢は、「天才ハッカー」かレゴビルダーになることでした。
——「天才ハッカー」と「レゴビルダー」!何かご自分の中で共通点があったのでしょうか?
今思うと、どちらも「構造」に関わるものです。家には父が仕事で使っていたWindows 2000があり、物心ついた頃からそれに触れていました。小学生で2ちゃんねる(現・5ちゃんねる)にアクセスし、ゲームの攻略情報を漁るだけでは飽き足らず、その内部データを覗き込むようなリバースエンジニアリングに夢中になっていました。「表面に見えているものの裏側はどう動いているのか」を知りたいという、ある種、偏執的な好奇心があったんです。
——デジタル技術の裏側に、世界の真実を見ようとしていたのですね。
それ以上に、当時の私にとってインターネットは「救い」でした。地方と都会の情報格差は、今よりもずっと過酷なものでした。テレビを回してもアニメすらろくにやっていない。そんな閉塞感の中で、ネットの掲示板や、時には「正しくない」とされるアンダーグラウンドな空間だけが、私を外の世界へ繋いでくれる唯一の窓口でした。エリートが提示する「正しい正解」よりも、匿名の人々が作り上げる「正しくない文化」にこそ、真の自由があるのではないか。そんな反骨精神が、阿蘇の山の中で静かに醸成されていったように思います。
——その後、ハッカーへの夢を現実にするべく、隣県の高等専門学校(高専)へと進学されます。
はい。エンジニアリングを学ぼうと意気揚々と入学したのですが、そこは想像を絶する男ばかりの、ゴリゴリの体育会系な空間でした。15歳から20歳過ぎまでが同居する寮生活。そこには極端な上下関係の論理と、上級生による理不尽な統治がありました。反抗心の塊だった私は、どうしてもその環境に折り合いをつけることができず、ついには心身ともに限界を迎えてしまいました。周囲との激しい摩擦から、寮にいられなくなり、無理な通学と凄まじいストレスから持病を再発させ、3年で中退を余儀なくされました。挫折という言葉では足りないくらいの、どん底の時期でした。
——夢を絶たれ、体調を崩して地元に戻った。その時期に、追い打ちをかけるように熊本地震(2016年)が起きたのですね。
そうです。2016年の3月に学校を辞めて熊本に戻り、そのわずか1ヶ月後に地震が来ました。自室で療養する余裕などありません。一人暮らしだった祖母を家に引き取り、介護をしながら、復興に追われる日々が始まりました。ただ、この過酷な経験が、意外にも私と地元を再接続してくれたんです。
——それは、どのような変化だったのでしょうか。
高専という「エリート予備軍」のレールから外れたことで、かつて一緒に遊んでいた「地元で中卒や高卒として働く友達」と、再び肩を並べて活動することになったんです。彼らと共に泥にまみれ、復興に向けて汗を流す中で、私は気づかされました。都会やアカデミアが語る「正論」や「正しさ」とは別の次元で、彼らには彼らの誇りがあり、文化がある。自分がかつて嫌って飛び出したはずの地元が、実は最も大切なことを教えてくれる場所だと感じるようになったんです。この「正しさの外部」にいる人々へのシンパシーが、後の社会学への関心へと繋がっていきます。
次回はアカデミアへの違和感について伺います。


