ジンブン独学ノートの実践編では、実際の研究について紹介します。研究へのモチベーションから、どのように日々の調査が行われているのかまで、インタビュー形式でお届けします。
第二十三回となる今回のインタビューでは、哲学と文学の境界を越境し、ハイデガーの根源的な「問い」と石牟礼道子の切実な「言葉」とを往還することで、現代における思索の新たな地平を切り拓く、研究者の宮田晃碩さんにお話を伺います。
問いを問う:ハイデガーとの出会い
——そこから、東京大学の理科二類に進学された。しかし、その後、文転されています。何か大きなきっかけがあったのでしょうか。
隕石が落ちてくるような劇的な出来事があったわけではありません。ただ、外的要因として大きかったのが、私が進路を考えるタイミングで、駒場キャンパスに現代思想コースが新設されたことです。
——ちょうど新コースが設立される時期だったのですね。
それまでは、哲学系も文学系も「比較日本文化論コース」という大きな枠組みの中にありました。それが再編され、哲学を専門とするコースが新しくできると。哲学への興味はずっと持ち続けていましたし、何より「人生をかけなければ本気で考えられないのではないか」という、少し青臭い考えが頭をもたげてきました。
——東京大学で哲学を学ぶなら、本郷キャンパスの文学部哲学科という選択肢もありますが、駒場の現代思想コースを選んだのですね。。
本郷の哲学科は少し怖いな、という印象もありました。ガイダンスで野矢茂樹先生が「本郷の堅苦しい哲学とは違いますから」と冗談めかしておっしゃっていたのも、後押しになったかもしれません(笑)。
——それは印象的なガイダンスですね。
現代思想コースは、文化人類学や表象文化論など、様々なコースが一緒になった学科に属していました。高校時代に作っていた雑誌も、多様な分野の文章を集めて一つの冊子にし、互いに読み合うことで、専門領域の壁を越えようという試みでしたから、その学際的な環境に強く惹かれました。実際にコース間の交流も盛んで、とても刺激的でしたね。
——その環境で、いよいよご自身の研究テーマを探求していくことになります。
はい。ただ、学際的である分、哲学史の知識などをみっちり叩き込まれるわけではないので、そこは自分で補う必要があり、今でも苦手意識はあります。しかし、テーマ設定の自由度は非常に高かった。指導教員だった古荘真敬先生は、私が高校時代から作っていた雑誌を「こんなの書きました」と持っていくと、きちんと読んで感想をくださるような、度量の広い方でした。好きなことを書く、という姿勢を応援してくれる空気がそこにはありましたね。
——卒論のテーマは、どのように決められたのでしょうか。
学部3年までは、特定の哲学者を研究していたわけではありませんでした。ただ、卒論を書くにあたって、一番根本的なことをやりたい、と思ったんです。哲学は「常識を疑う」「前提を問う」と言われますが、そもそも「問う」とは何だろうか、と。
——問いそのものを問う、ということですね。
はい。なぜ私たちは問うことができるのか。問いを立てるためには、言葉を使い、その問いの意味をあらかじめ理解している必要があります。しかし、意味が分かっているのなら、それは本当に前提を問えていると言えるのだろうか。「問う」という行為自体に、すでに何らかの理解が前提とされているはずです。その構造に関心を持ちました。
——非常に根源的な問いです。
そんなことを考える上で、どの哲学者のテクストを読めばいいか探していた時に出会ったのが、ハイデガーの『存在と時間』でした。本の冒頭、扉の部分にプラトンからの引用で「『存在』という言葉の意味が分からなくなってしまった」という一節があり、続けてハイデガーは、古代ギリシャ人が熱心に取り組んだ「存在への問い」を、現代の我々は問うことすらやめてしまったのではないか、この問いを立て直さねばならない、と宣言します。
——まさに「問いを立てること」が主題の本だった。
そうです。『存在と時間』は、問いを立てることをスタート地点にするだけでなく、それを目標にさえしている。簡単には立てられない根源的な問いを、ハイデガーはどのように理解し、なぜそれが可能だと考えたのか。それを読み解くことが、私の卒論のテーマになりました。
そしてもう一つ、私が面白いと感じたのは、ハイデガーがその根源的な問いを、過去のテクストとの距離感から始めている点です。「過去の哲学者はこう問うていたが、一体何が疑問だったのだろうか、今となっては分からなくなってしまった」という、ある種の断絶、ギャップから出発している。
——なるほど……哲学史を全て覆すような革新的な試みでありながら、過去との対話から始まっているところが、面白そうですね。
ええ。これまでの哲学はどれもモノローグ、独り言ではないかと批判したフランツ・ローゼンツヴァイクという思想家がいます。プラトンの対話篇にしても、結局ソクラテスが導きたい方向へ展開されるだけではないかと。ハイデガーもまた、個人主義的で他者が不在である、と批判されることがありますが、その出発点には、過去のテクストという他者との衝撃的な出会いが置かれている。その構造に非常に惹かれました。
最後は石牟礼道子の文学との出会いについて伺います。

