VOL.01あとがきのあとで

研究室で笑う梶谷真司先生
撮影=ジブンジンブン編集部
『思想としての育児』書影

THE BOOK

『思想としての育児――知識と身体の歴史哲学』

梶谷真司 著/教育評論社/2026年3月9日刊
四六判上製352頁/3,300円(税込)/ISBN 978-4-86624-129-6

哲学者の梶谷真司先生(東京大学大学院総合文化研究科教授)が刊行した『思想としての育児』。哲学書としては歴史に踏み込みすぎ、育児書としては重すぎる——「どこの棚に置かれるのか分からない」この一冊は、刊行後、思わぬところから反響を集め続けている。執筆の動機から20年におよぶ資料探索の軌跡を、学生時代から梶谷先生と10年来の交流があり、ジブンジンブンの編集者でもある廣川がたっぷりと伺った。

書評は弱いつながりから

刊行から時間が経って、書評もだんだん出てきて、注目されていますね。

ありがたいことにね。実は、今出ているほとんどの書評って、こちらから誰かに頼んだわけじゃないんですよ。お願いしたのは書評じゃなくて、帯文だけですね。かつての同僚で、哲学のど真ん中にいる野矢茂樹さんに頼みました。一番最初に出た九州の新聞の書評は、全然知らない人でした。そのあと、森岡正博さん、古田徹也さん、河野哲也さんといった哲学の最前線におられる人たちからも書評をいただきました。今日見つけたのは宗教関係のホームページの書評で、これも全然知らない、結構若手の研究者。

あと、知り合いの伊藤裕子さんという、西成で看護師をしている方で、以前UTCPのイベントにも出ていただいた人が、Facebookに感想を書いてくれていて。「書評」と言っていいぐらいのものでした。

そういう「弱いつながり」から返ってくる感想、いいですよね。しかも自発的に。

そうね。意外でもあるし。自分から書いてくれる人がいるっていうのが、ありがたいですよね。

棚が決まらない

「この本、誰が読むんだろう」と思いながら作っていらしたとか。

思ってました(笑)。哲学の人はきっと読まないだろうと。じゃあ子育て中の人が読むかというと、その割には重いよね。歴史ものに関心のある人が読むかというと、そうでもない。じゃあ誰が読むんだろうって。

出版社の編集としては、「この本、どこの棚に置くイメージですか」が決まっていないとヒヤヒヤするやつです。

その割には、この間、面白い依頼が来たんですよ。今度イベントに出させてもらうんですが、依頼主は出産ジャーナリストという職業の方。母乳のことについて話してくださいという依頼です。「母乳育児が大事だと思っている人が好きそうな話じゃないかもしれないですけど、いいですか」って言ったら、「むしろそれがいいんです、相対化してほしい」と言われて。

相対化、ですか。

面白いですよね。お医者さんとか、母乳指導をしているような人たちが集まるところで、「別にそんな昔から母乳で育ててないですよ」みたいな話をするわけです(笑)。

読者層が多様ですね。そうなるといよいよ書店泣かせです。哲学書かと思えば歴史資料の原文も出てくるし、注釈も多いですし。

原文を載せているところ、多いですね。注釈も、それだけで全体の1割ぐらいある。編集者に「もうちょっと減らせませんか」って言われたんだけど、減らせなかった。

やっぱり注釈があると、「専門外の人間が書いているけど、ちゃんとした資料を参照して書いてます」ということが示せるから。「哲学専門の人間が何やってんの?」「適当に書いてるんじゃないの?」と思われないためには、注をきちんとつけておかないと。哲学研究の切り口で育児・育児書の歴史の本を作った人は、多分まだいないわけだから。

期待されたことを裏切る

先生は、「自分がどんな価値観に寄りかかって世界を見ているか」に自覚的であるべきだ、と、第8章「母乳の自然性とその歴史的変遷」の終盤でおっしゃっていました。育児書が前提とする「世界」そのものを問い直す本だから、紹介が難しいんですよね。「育児に役立ちます」ではなくて。

そう。歴史研究をする人が読むと、「昔の育児はこんなふうだったんですよ、こんな素晴らしいことを江戸時代から考えていたんですよ」みたいな懐古趣味や、「歴史に学ぶ」系の読みになりがちだし、ジェンダー研究に関心のある人が読むと、「この時代から女性の身体の管理が始まっていましたね」という話になる。

それはそれでいいんだけど、僕は、誰かを説得するために育児書を利用しているわけではないんですよね。あくまで僕の関心は、育児をめぐる価値観・世界観がどう言語化され、どう変化してきたか、ということだから。何か別の目的のために利用する読み方だと、やっぱり何かしら偏りが出てくる。自分が100%中立的だとは全然思わないけど、できるだけそうならないように読むということはやったつもりです。

東洋的身体観についての章も、そうですよね。

そう。西洋哲学に対して東洋哲学の話をする時、よく「心身連続」や「心身一如」のような概念で東洋的な身体観をポジティブに捉えて、ヨーロッパの心身二元論を乗り越える、みたいな話にしがちなんだけど、「そういうふうにはなかなかいかないですよ」ということを書きたかった。逆張りの逆張りというか、みんなが行く「こっち側」とも違うところに行くのは、ちょっと意識的にやりました。

それ、すごく先生らしいですね。「東洋的な価値観を再評価しよう」というテーマの本は、哲学・思想に限らずビジネス書でも増えていますが、先生は期待されがちなところを、必ず裏切る。

期待されたことを裏切るのは、普段からやってますよ(笑)。「みんなこう思ってるでしょ? これで満足してるでしょ? 違うんだよ!」っていう。

「哲学対話をやると主体的に考える子供が育ちますか」と期待されたら?

「いや~どうですかね?」みたいな(笑)。

「先生は哲学対話を広めたいと思ってますか?」と聞かれたら。

「いや、別にそんなことはないです」(笑)。

意外とそういうこと、おっしゃいますよね(笑)。「私は専門家です」という態度を、意識的に取っていない感じがあります。

期待に応えるポジションを取るのは、あんまり好きじゃないんだよね。この本もそうで、「育児書を『何かに役に立つはず』と読んでるだけじゃもったいない。もっと面白い読み方があるでしょ」という思いがある。

期待されたことを裏切るのは、
普段からやってますよ

違和感から始まった一冊

この社会で、「子供は大事にすべきもの、育児は女性が担うのが自然」という、一見当たり前のように思われることを疑うと、「常識がない」と思われそうな空気がありますよね。そういう「当たり前」を疑うこと自体は、どこから来たんですか。

実際に自分が暮らしている中で、ですね。

周りで虐待の話を見聞きしたり、子供の同級生がいわゆる不良になっていったりする時に、周りの大人は「あの子はダメだよね」「ああいう子はいない方がいいよね」みたいに言う。

でも、よくよく様子を見ていると、その子が悪いわけじゃないよな、と思うことって多い。親のほうだって、別に虐待したくてしてるわけでもなかろうに、とか。何かがちょっと食い違ってそうなってしまう。虐待とまでいかなくても、子育てっていつも楽しくて楽なわけじゃないから、「子供なんていない方がいい」という考えになることだってありうるわけです。

だから「子供の命の価値」の話は、もともとそういう本を読んでいたのもあるけど――いや、どっちが先か分からないね。そういう実感があったから、「子供はいつから大事にされるようになったんだろう」という観点でまとめていったんだと思う。

中絶が普通だった時代

第2章「子どもの価値の転換史」では、子どもの命の価値が時代によって大きく変化してきたことが書かれていますね。

個人的にはね、子どもの命の話に関して言うと――自分が大学生の頃って、学生が妊娠したら、100%中絶しかなかったと思うんです。「産んだ方がいいんじゃないか」「中絶したら子供がかわいそう」なんていう話は、自分が大学生の頃には聞いたことがない。「産む」なんて言い出したら、誰も賛成しない。みんな大反対。妊娠したら中絶するのに4万円、親にはとても言えない、だから自分で出さなきゃ。それが当たり前だった。

あの時代、ドラマの『3年B組金八先生』(第1シリーズ、1979年)で、杉田かおる演じる中学3年生の浅井雪乃が妊娠し、出産するという展開があって、あれがいかにスキャンダラスだったかは、あの時代じゃないと分からない。今、高校生が妊娠して「産む」と言ったら、周囲の大人はきっと、「大事な命だから、何とか育てましょう」とか、少なくとも「どうしようね」と迷うでしょう。当時は、ドラマとしてすら大騒ぎになるくらい「ありえない」話だったんです。

それがいつの間にか、高校生に限らず、「子どもができたから結婚します、産みます」が普通になった。

自分が生きている間に、世界の常識がいつの間にか変わっていた。

いつ、どうやってそんな変化が起きたんだろうというのは、自分がその変化の中を生きて、この目で見てきたはずなのに、分からない。自分自身の考え方も、たぶん変わっている。

もし娘が結婚前に妊娠したら「なんて恥さらしなことだ、どうするんだ!」なんてことは、絶対言わないでしょうね。「仕事との両立はどうするの」みたいな話はするけど、とりあえず悩むと思う。すぐに「中絶だ!」とはならない。

だけど、僕が学生の頃は、中絶以外の選択肢を誰も考えなかった。その変化を僕自身が生きてきたわけだから、なんでそんなことになってるんだろうと、自分自身が理解したかったんですよね。

身ぶりを交えて話す梶谷真司先生

芭蕉と地蔵和讃をつなぐ

自分が生きている間に、世界の当たり前が知らぬ間に変わっていく。それを自覚的に見るのは、誰にでもできることじゃないですよね。

そう、その謎を解くのに、自分が生きてきたこの数十年がある。たまたまルイス・フロイスの話を読んだりして、「この時代から今に、どうやって至るんだろう」と。そこまで遡らないと説明できない気がしたんです。

※フロイスの著書『日本史』における、戦国時代の日本において子どもの命が軽すぎるという記述。

ずいぶんスケールの大きい話になってきました。

ただ、これは僕一人ではできないことで、膨大な先行研究に支えられているんですよね。僕が「育児」「育児書」「出版」という観点で、歴史のストーリーをつなげたということにはなるんだけど、言ってしまえば「都合のいい先行研究」を引いてつなげたにすぎない。

むしろ、つなげられるだけの材料が、それぞれの時代にちゃんとあったことが、ありがたかった。最初の問題設定は僕のものだったかもしれないけど、それをつなげてくれる先行研究があったのは、本当に幸いでした。

うまくつなげるにしても、切り口があってこそですよね。個人的には、松尾芭蕉の『野ざらし紀行』のエピソード(第2章)が印象的でした。芭蕉が伊賀上野に行く旅の途中、子どもが道端に捨てられているのを見て、芭蕉が説教をして、飯を投げて去っていく。あの分析が、もう論理的にしつこくてしつこくて、「うおお! 哲学者っぽい!」と思いました。

先行研究では「昔はこうでした、芭蕉もこうでした」と、さらっと流されるところなんだけど、あそこはしつこく分析した。「そもそも、芭蕉はなんでこんなことを情緒たっぷりに書いているんだろう? じゃあ、芭蕉はまともな人間なのか?」という仮説を立てる。としたら、これが当時の普通の感覚で、捨て子を見ても同情はしない。飯を投げて説教して去っていったとしても、それが奇異ではない世界とは何か――ということを分析していく。

そうやって「この軸だったらどういえる? この条件が成立するとしたら、どういう世の中か?」と詰めていく手続きが、本当に緻密で。パズルピースが埋まっていく感じがありました。『地蔵和讃』との接続もそうですよね。

そうそう。地蔵和讃――賽の河原で子供が石を積んでいるのを鬼が崩すという言い伝え、あの話と芭蕉の話が重なったのは、自分でも「ああ、やっぱりそうだったか」と。両方たまたま知っていたから、あれを見つけた時に、完全に芭蕉の話と接続するなと分かって、あそこに持ってこられた。ああ、芭蕉は鬼でも仏でもない人間だったんだ、って。

ただね、校正の時に気づいたんですが、地蔵和讃のテキスト自体は、明治時代の文献を参照したもので、時代的に合わないんです。

松尾芭蕉は江戸時代、地蔵和讃のテキストは明治時代。話が合わないんじゃない? と気づく人もいそうですが。

注意深い人だったら、注の典拠の出版年を見て「これ、おかしくない?」と思うかもしれない。もう校正の段階になっていたから、「あれ? この話、成り立たないかも」と思って。内容的に大きくは間違っていない自信はあったので、知らんぷりしておくという選択肢もあったわけだけど(笑)、やっぱり気になって探したんです。地蔵和讃についての論文がないか。

そうしたら、地蔵和讃について書かれている論文が、3本くらい見つかった。それを取り寄せて読んだら、ちゃんと証拠が見つかったんですよ。

どうやって証明できたんですか、江戸時代のテキストを。

要は、文章自体がどうだったかではなくて、「年齢」。賽の河原にいるのが「10歳にもならないような幼児」だとする今に伝わる歌詞が、いつ成立したのかということが書いてあった。和讃自体は平安時代の空也上人の作と伝えられているけど、それは多分本当じゃない、伝説だろうと。だけど、特に子供の年齢「10歳以下」とする歌詞は、江戸の元禄から寛政の間に成立した、ということを言っている論文があったんです。それ以前は、年齢が違うんですよ。

元禄から寛政の間、つまり芭蕉の時代とも近いですもんね。

そう、「これだ!」ということで、間接的に証明できた。本当にゲラの確認中に見つけて、8行ぐらいの注を入れられた。滑り込みセーフです。

よかった。よかったですけどね、編集者からしたら、ハラハラしてしょうがない。

しかもこの論文、書かれたのが昭和56年ですよ。どんな小さな問題でもきちんと解いておくと、後世の人の役に立つ。著者は龍谷大学の研究者でした。たぶん僧侶でもあるんでしょうね。もう、「なんとありがたいことか!」って、思わず合掌しましたよ(笑)。

まさか、育児思想史研究している哲学者が引用するとは、思っていないですよね。

絶対思ってない。「仏教学で参照されたらいいかな」と思って書いているはずで、哲学者が引用するとは、まさか思っていない。まあ、僕が引用した論文の、どの著者もそう思ってるでしょうけどね。「私の論文、哲学者が読んでるの? なんで?」って、全員思ってる(笑)。

民俗学から医学史へ

それにしても先生、「前に読んで知っていた」「目についた」ということが多すぎませんか。本を書くぞと思う前から、どうやってこれだけの材料を集めていたんですか。

やっぱり、民俗学の研究をやっていたのが大きかったですね。

民俗学の研究を始めたのは、東大の生協書籍部で、たまたま小松和彦さんの『悪霊論――異界からのメッセージ』(青土社、1989年)を見つけて、読んでみたらめちゃくちゃ面白くて「これ、現象学で分析したいな」と思ったのがきっかけです。

悪霊と現象学。どうやって結びつけたんですか。

雰囲気としての「異他性」――「異なっている」とはどういうことかを、認識ではなく「雰囲気の経験」から分析する。それをシュミッツの現象学の観点から検討できないかな、と思ったんです。そこから、悪霊の話、妖怪の話、幽霊の話、それから民間信仰、伝説、お祭りの話――そういうトピックをざーっと勉強して、原稿用紙200枚超えの論文を書いた。「集合心性と異他性――民俗世界の現象学」(小川侃編『雰囲気と集合心性』京都大学学術出版会、2001年)という論文です。博士論文の後、まとまった研究として初めて書いたのがそれでした。

その民俗学の研究をやった過程で、賽の河原の話も知っていたし、祟りとか憑き物が何なのかということも読んでいた。もともと「死」の問題に興味があって、修士論文もハイデガーにおける死の問題で書いたし、その頃から民俗学や宗教に関する死の議論は結構読んでいた。だから「あ、この話、なんかあったな」と当たりがつけられる。

よく分からないことを色々やったけど、ここで全部回収できたなという感じはありましたね。

その論文にも、思わぬ読者がいたんですよね。

そう。「集合心性と異他性」は、指導教員と一緒に書いた論文集の一編で、まあ売れなくて誰も読んでいない本ですけど(笑)。それを、関西大学の木岡伸夫先生(哲学・風土学が専門)が読んで、僕を研究会に誘ってくれたんだよね。僕は木岡先生とは1回会ったくらいで、親しくしていたわけでも、論文を送ったわけでもない。その先生が、「あなたの論文を読んで非常に面白かったから、うちの研究会で発表してくれないか」と。「え、読んでる人、いるんだ」って思いました(笑)。

純粋に面白かったから声をかけてくれた。すごいことですよね。

「悪霊の研究だなんて、真面目に評価されるのかな」と思っていたけど、がっつり哲学の研究をしている木岡先生みたいな人が、この研究を面白いと思ってくれた。しかも、わざわざ研究会に誘うなんて、尋常じゃない。あれには励まされましたね。

医療史の方面では、山田慶兒先生(中国科学史)と酒井シヅ先生(日本医学史)の存在が大きかった。

医療史の研究では、岡山のお医者さんの家の資料調査に入られていますよね。

そう。そこでの調査では、江戸時代のお医者さんの診療記録を見せてもらいました。記録には、患者の名前・住んでいる場所・具体的な症状が残っている。「どこの誰さんが腹痛」みたいな感じですね。

そういうのを見たあとだと、例えば昔の医学書の中で「患者を診た」と書いてあったら、細かいことが気になってきちゃうんだよね。お医者さんが往診したのか、患者が医者の家に来たのか。報酬はどうやってもらったんだろうとか。リアルに思い描けないと、分かった気になれない。

面白かったのは、ある医者の日記でね。その人は自分の思いを一切書かない人で、「どこへ行ったか」と「いくら払ったか」しか書かないんだけど、それがかえってありがたかった。その人の日記に、「ロウソク代」という支出の記録が何回も出てくるんだよね。ロウソク1本がなんでこんなに高いんだ? と思っていたら、どうやら「医学塾の先生の家で、医学書を写本させてもらうための金額」なんです。

へえ! 家の中が暗いから、写本するために明るくしないといけない。それで「ロウソク代」。

家に先生はいなかったかもしれない。ただ本を借りてその場で写させてもらって、「何々塾に行きました」と書いている。「誰々先生の弟子」と名乗っていても、実際は毎日行く塾が違ったりする。じゃあ、「誰かの弟子になった」という時に、実際は何をしていたのかな、と。

「弟子であること」が、ただの肩書でなく、体験としてどうだったのか、ということですよね。

そう。本当のところはどうだったか分からないけど、でも想像ぐらいできないと、あまりにも薄っぺらな感じがしてしまう。たとえ誤解だったとしても、想像ぐらいはしてから書きたいなと思うんですよ。

哲学を普通にやっていると、概念的な理解に筋道があって、論理的に整合性が取れたら、分かった気になってしまう。それが、民俗学や医療史の研究をやったことで、そういう哲学研究ができなくなった。そんなレベルで「理解した」とは思えなくなった。

具体的に想像できないと気持ち悪くなっちゃう、みたいなことですかね。

そう、気持ち悪い(笑)。ある程度、具体的に思い描けないと、分かった気になれない。それは医療も思想も同じ。

薬屋・石田家を追う

私が好きな章は、第5章「知の媒介者の存在意義と創造性」、薬種商・石田家が登場する章です。出版にたずさわる人間としても、一番面白かった。石田家は、本業が薬屋さんでありながら、かなり分厚い育児書『小児養育金礎(こがねのいしづえ)』(以下『金礎』)を自前で作って、しかもそれを無料のノベルティとしてお客さんに配っているんですよね。その育児書の内容も、時代とともに西洋医学の影響を受けて書き換わっていく。

あれは資料が良かったんですよ、面白すぎるくらいでした。どうやって『金礎』にたどりついたのか、今や経緯は覚えていないんだけど――これまで調べてきた育児書の著者を並べたら、他はみんな医者だったり儒学者だったりするのに、石田家だけ薬屋じゃん! と気づいたんですよね。

しかも、何回も改訂を重ねていて、「第何版」という版がたくさんあったとか。

そう、きちんと調べてみると、やたらと版がある。異版があったら、見てしまうんですよね。

見たいですよね。異同を全部調べるのは気が遠くなりそうですけど。

出版社からしたら、やばいよね(笑)。結局、僕が確認しただけで、『金礎』には少なくとも30くらいのバージョンがあって、現存するものだけでそれだから、実際にはそれより多かったはず。しかも、違いが細かいんですよ。本の一番うしろの部分に取次店のリストがあって、1店舗でも違っていたら、版が違うことになる。中身は一緒なのに、もう一回刷り直していて、取次店のリストだけ更新する。そうなると、取次店もどこが増えたのかちゃんとチェックしなきゃ、となる。

「取次店が増えている」ということ一つとっても謎だから、つい確かめたくなるってことですよね。

そう。やり出したら止まらないんだよね。途中でやめるわけにいかない。少なくとも、見られるものは全部見なきゃと、いろいろな場所に見に行った。今はオンラインで見られるものも多いけど、当時は所蔵先に直接見に行かなきゃいけなくて。たまたま在外研究で行ったカリフォルニア大学サンフランシスコ校にも『金礎』の別の版があって、確認したら「あ、また微妙に違う!」となる。アメリカまで来てまた新たな異同を見つけちゃったよ、って(笑)。

でね、面白い発見もあったんです。明治になって、『金礎』の印刷方法をいったん活版印刷にしたのに、もう一回、木版に戻っているんです。活版で2版ぐらい出して、そのあとまた木版に戻して5版くらい出している。これ、気づいた人いないと思う。

木版に戻した! 一度活版になったらそのまま続くかと思いきや、そうではない。

いかに木版印刷が便利で、活版が不便だったかということです。江戸時代の出版一般に言えることだけど、木版印刷は版木が残るから、増刷しやすかったし、そのコストも低かったんでしょうね。それに版木は、それ自体が資産になる。出版をやめるとなったら、版木を売ってお金が回収できる。権利、つまり「版権」ごと売れるわけだから。

「新しい時代の技術だし、便利だと聞くからやってみよう」と活版印刷を試して、「やっぱりダメだわ」と戻す。チャレンジ精神と判断力がすごいですよね。

数年に一回、頻繁に改訂するようなやり方をしていたから、活版は合わなかったんだろうね。普通の本みたいに一回出したら再版しない、というのなら活版でいいのかもしれないけど、「僕たちのやりたいことは活版には向いていなかったぞ」と。そういう判断ができる家なんですよ。

版の調査データ、最後に更新したのが15年前とおっしゃっていましたね。

15年前。元気だったなあ(笑)。今はもう無理です。もう一回、別ジャンルの出版物でこれぐらい頑張る研究を、命を削って気力を振り絞ったらちょこっとできるかも、とは思うけど……調子に乗って、大した成果が出ないみたいなこともあり得るから、踏み出せない(笑)。研究のテーマ選びって、本当に縁ですね。人生をかけちゃうんだから。

『金礎』の、文化10年の初版は、どこで見つかったんですか。

それがね、なぜか、名古屋工業大学。「なんで工業大学が持ってるの?」って思うよね。しかも、江戸時代の本なのに貴重書扱いになっていなくて、請求したら普通に送られてきました。

ええっ!

東大や京大の図書館なら全部貴重書扱いだから、絶対に貸出はできないし、写真も普通は撮れない。マイクロフィルムで見て印刷するしかない。それが、取り寄せてコピーをガンガン取れた。なんでこんな江戸時代の本が、貴重書扱いにならなかったのか、つくづく不思議なんですが、誰かがうっかり買ったんでしょうね(笑)。多分、誰も見ていないと思う。それに工業大学だから、そもそも貴重書扱いなんてまったくしてないかもしれないですね。

名古屋工業大学の中で誰も見ないような史料が、よく見つかりましたよね。そもそもOPAC(図書館のオンライン蔵書目録)に載っていたから、検索できたんですよね。

あの時代は、OPACにどんどん書誌データが上がってきていた時代で、「あれ、この資料、こないだまでOPACに上がってなかったじゃん」というのがよくあった。リアルタイムでデータが充実していく時期だったんですよね。

時代の変化もあるし、資料の方から集まってきた、ともいえますね。

そう。歴史学って、出会いだなって思いますよ。

書棚に囲まれた梶谷先生の研究室
壁一面の書棚に囲まれた研究室で話をうかがった

石田家の子孫を訪ねて

それで言うと、石田家のご子孫との出会いも印象的だったとか。

研究で知り合った亀岡市文化資料館の方に「亀岡出身で京都に出て薬屋になった石田という人がいるんですけど、知りませんか」と聞いたら、「それ、この石田さんじゃないですか」と紹介してもらえたんです。なんでその人が知っていたのかというと、亀岡(本家)の石田から明治時代に政治家になった人がいて、地元の名士として調査したことがあったからだそうで。それで行ってみたら、まさにそうだった。

本家のほうには、家系図や京都の石田家に関連する資料や書簡が残っていたから、親族関係や人柄が具体的に分かった。育児書の記述だけだと「盛ってるかもな、嘘を書いてるかもな」と思っていたのが、本家に残っている資料と食い違わない。「非常に声が大きくて張りがある」みたいな人物描写が書簡の方にもあって、ほぼ一致する。非常に真面目で、努力家の家系の人たちだったんだ、と。

明治になって、薬種商の石田家が『金礎』を大きく書き換えていく時、それが彼ら自身の知的誠実さへのこだわりだったんだ、というところまで踏み込んで書けたのは、あの家の資料を見ていなかったら無理だった。育児書をいくら読んでも、そんなことは出てこない。ただ単に、「記述が変わっている」としか言えないから。

それで、完成した本を、石田さんに直接渡しに行かれたんですよね。

そう、4月だったかな。年賀状のやり取りはしていたので、電話して本が出たことを伝えるととても喜んでくれて、「ぜひぜひ」と。訪ねていったら、当のご本人はすでに2冊ほど買っていて(笑)。

もう買ってらっしゃる(笑)。フライングですね。

「なんで!?」ってなりましたよね(笑)。しかも、昔調査で伺った時は応接間にソファーがあって、そこに資料を持ってきてもらう感じだったのが、今回は座敷に通してくれて。奥様以外に、鳥取に嫁がれた娘さんと、二人のお孫さんまで揃って、家族総出で迎えてくれた。

うわあ、素敵。応接間から座敷という変化もすごいです。関係性が深まったってことですよね。

本当にありがたいですよね。最初に会ったのは2009年だから16年ぶり。当時もすでに70代だったから、よく元気でいてくださったなと。本当に、偶然の巡り合わせの積み重ねですよね。一見関係ないようなことでも、論を補強するために実は大事だった、ということがいくらでもある。

山田慶兒先生の言う「新しい問題領域を開くのがいい研究だ」という点でも。

石田家の章に関しては、「媒介的な知」、あるいは「知の媒介者」という概念を提示できたのは、良かったなと思います。普通に言えば「こんな出版人がいますよ」というだけの話なんだけど、専門知と民衆知の間を「媒介する」人間、という位置付けを与えられた。作り手だけじゃない存在が、実はすごく大事なんだ、と。

出版の意義って、まさにそうですよね。この本を作ること自体が、それを体現していると思います。

積み重なってできた本

出版社・ジブンジンブンのサイトに載せるからこそ伺いたいんですが、読者は本が頭から順番に書かれていくと思いがちですよね。ちょっと個人的な話をしますと、私と梶谷先生の出会いは2014年で、もう12年前になります。東大の学部1年生向けの必修授業「基礎演習」で、私がたまたま梶谷先生の担当クラスだったんですよね。で、その「基礎演習」では、論文の書き方の基礎を教わるのですが、その時点ですでに先生は母乳育児に関する紀要論文を書いていて、それを題材に「論文のストラクチャーとは」ということを説明されていました。

そう。あれは帝京大学の紀要に出した論文でした。序章と1章と3章と終章は今回この本のために書いた章だけど、4章、5章、7章、8章は帝京大学に勤めていた時に書いている。この本の核になっている歴史研究的なものは、帝京にいた時代にほぼ全部書いているんです。

10年単位で文章が積み重なっている、ということですか。

第2章(子どもの命の価値)の話なんかは、東大の公開講座の講義のために、もともとあったネタを組み合わせてストーリーを作った。第6章の内容(東洋医学と心身連続観)も、東大の哲学会で発表した。いろんな場で発表したり、ジャーナルに書いたり、語ったりしてきたものが、十年単位で集まってきたのがこの本なんですよ。

しかも「本として出せると思っていなかった」とおっしゃっていましたよね。

そう、出せると思っていなかった。たまたま見つけて「本にしませんか」と提案してくれる人がいて、最初は「ありがたいな」と思って話を受けた。ただ、そこから「1冊の本にするのにどうするんだろう」という悩みが始まって、何年も平気で過ぎる(笑)。最初に話をいただいてから10年たってしまった。育児の研究そのものは、娘ができた時に始めた――といっても、その時は研究として始めたわけじゃなく、色々本を読んでいただけだけど。最初の発表は、娘が生まれて数年経って、木岡先生の研究会に呼んでいただいたところでした。

そうして1冊の本になるわけですが、タイトルが要りますよね。最終的に『思想としての育児 知識と身体の歴史哲学』になるわけですが、これに決まるまでにはどんなプロセスがあったんですか。

出版社の人と「この本のテーマって結局何なんですかね」と考えていた時に、知識の話もしてる、身体の話もしてる、歴史だし哲学だし――ということで付けたタイトルで、最初は無理やりなタイトルだなと思っていたんですよ(笑)。序章で「なんでこういうタイトルなんだ」と、完全に自分を納得させるための文章を書いていて、出版されてからも後ろめたさがあった。育児、思想、歴史、哲学、身体、知識って、検索に引っかかりそうな単語を並べただけじゃないか、みたいな。

でも、だんだん書評で言及されたりするうちに、「悪くないタイトルだったかな」と、最近ようやくしっくり来た。

実はそんなに馴染んでいなかったんですか(笑)。意外です。

こんなにいろんなことを書いているものを1つのタイトルに収めるなんて、どうするんだ、という感じがあったからね。ただ、後から取ってつけたわけでもなくて、序章・1章・3章・終章という「つなげるための章」を書いたから、このタイトルでも大丈夫なように書けたんです。全体のまとまりをつけるために、章を加えた。

研究は犠牲にしない

執筆の時期は、子育ての初期段階とも重なっていますよね。

でもね、子育てが大変だったという記憶は、そんなにないんですよね。子育てをしていても、論文はずっと書いていた。それは意識しました。「子供が生まれて研究ができなくなって、論文の本数が減りました」というのは、絶対やっちゃいけないなと。子供のせいにするのは子供がかわいそうだし、自分にそういう言い訳もしたくない。だからこそ、子供ができても論文は今まで通りの本数を書き続ける――なんだったら、それまでより書く、ということは意識しましたね。

僕は帝京の教員で、あまり忙しくなくて、授業だけやって帰れたから、子供の幼稚園の送り迎えもしたし、子供と一緒の時間は長かった。ただ、研究を子供のために犠牲にしないというのは決めていたから、子供がそばで騒いでいても、無視して書く(笑)。娘は僕と一緒にはいたけど、すごく遊んでもらった記憶はないと思う。「パパ、遊ぼう」と言われても「パパ、いま本読んでるから」って言って断る。ボードゲームをやった記憶もそんなにないし、お出かけもしない。だから僕、ディズニーランドに行ったことがないんだよ。

面白い(笑)。関東の親御さんたちはディズニーランドに行ってそうなイメージ、ありますけどね。

最初は誘われていたけど「パパ、家で休んでるからいいよ」と言ってたら、そのうち誘われもしなくなった(笑)。

あと、子供って立ち上がれるようになると、手当たり次第にものを触るでしょう。多分、多くの研究者は、本を触られたり破られたりするから、手の届かない上の方に避難させる。僕はそれを絶対しなかった。代わりに、子供が触らないようにしつけた。触ったら、まだ破いていなくても制止して「ダメ」って言って手を叩く。書棚に触ったらダメと、何度も何度もしつこく言いました。だから僕の場合、子供に破られた本は1冊しかない。少し破られただけで、ページが取れたわけでもない。それ以外に本を避難させたこともない。子供はもう触らなくなった。

すごすぎる……

子供がいる状態で、研究が普通にできる環境を作っていったんです。もちろん夜泣きとか、病院に連れて行くとかで時間は取られるけど、それは当たり前のことだから、それで何かが犠牲になるという話でもない。やるべきことをやってるだけです。

横で奥様の子育ても見ていらしたわけですもんね。

そう、一緒にいたから、お母さんたち同士の話も聞いているわけです。お母さん同士が集まると、話題は子育てが大変だということと、旦那の悪口(笑)。世の旦那さんたちがどう振る舞っているかも聞いているし、奥さんを大事にしない旦那は、悪口の中にいっぱい登場する。あれはね、世の旦那さんたち、気をつけたほうがいい。本当に容赦ないから。キャバクラに行ってるとか、浮気してるとか、お母さん同士は全部知ってる。恐ろしいぐらい知ってる。

コミュニティの中で全部共有されているわけですね。

で、僕はその情報をかみさんから全部聞いているから、幼稚園の運動会で「パパらしく」振る舞っているお父さんを見ても、「この人、こないだ暴言吐いたらしいな」とか「キャバクラ行ってるんだ、この人」と(笑)。周りのお母さんたちからそういう目で見られてるんですよ。そんなこと知ったら、奥さんを大事にする以外に選択肢がない。

そういうのも色々あって、書けている部分はあるかもしれないです。

歴史を知ることが救いに

研究と子育てが同時進行だったというのは、象徴的だなと思います。「研究がどんなふうに子育てに活きましたか」と普通のインタビュアーなら聞きたくなるところですが、これは普通のインタビューではないので(笑)、率直なところをうかがいたいです。

活きたかというと、そんなことはないですけどね(笑)。ただ、半々ぐらいかな。母乳育児の研究をやっていて――うちの奥さんは母乳が出なかったから、「粉ミルクでいいのかな」というのに「いいよ、いいよ。僕もお乳あげられるし」と言えたのはある。研究としてはっきり分かってきたのはその後のことだから、「あれで良かったんだな」というのは後で思ったことですけど。当時も松田道雄の本なんかは読んでいましたよね。

松田道雄! 結構クラシックですよね。

松田道雄は本当にいい。今読んでもいい。『私は赤ちゃん』(岩波新書、1960年)。新書で今も手に入るから。赤ちゃんの視点から子育てを語る本で、60年以上前のものだけど、今読んでもいい。

それでね、僕自身は、育児に役立てようと思って研究していたわけじゃないし、期待もされないだろうけど、結果として読む人の何かの励みになることはあるかもしれない、というのは、特に母乳に関しては思っているんですよ。

本が出るずっと前、論文を書いた後に、子育てサークルで母乳について講演してくださいと言われたことがあるんです。母乳にこだわって育てているお母さんが来るんじゃないかと思って、「いや、みんなが昔から母乳で育ててたわけじゃないですよ。母乳主義とか良くないですよ」みたいな話をするのはどうなのかな、怒られるんじゃないかなと思いながら行ったんだけど、すごく喜ばれた。母乳で苦しんだお母さんたちが多かったから。

お母さんたちは「苦しまなくてよかったんだ」ということではなくて、「そんな簡単な話じゃなかったんだ」「自分が出なかったからダメとか、そういう話じゃないんだ」ということが今になって分かってよかった、と言っていた。

別にお母さんたちのために書いたわけじゃないんだけど、きちんと歴史のことが分かるということは、誰かの救いにもなるんだな、と。

きちんと歴史のことが分かるということは、
誰かの救いにもなるんだな

フラットに歴史を振り返っているだけなのに、救いになる。

そう。「昔からこうだったんだ、だから真似しよう」みたいに直接語りかけてくるものじゃなくて、「昔は全然違ったらしいですよ」の方が、なぜか救いになる。

子育てって、今言われていること、お医者さんや周りの言うことに、すごく支配されるんですよ。「それじゃなきゃいけない」と思わされる。それが、歴史という異物を知ることで俯瞰できると、「昔からそうだったわけじゃないんだ」と、一旦離れた上で「じゃあ今は今でどうするか」を考えられる。ちょっと自由になることは、あるかもしれない。

親としての「良さ・ダメさ」に直結する話題だからこそ、強制的に歴史で距離を取るわけですね。

そう。しかもね、お医者さんは歴史のことをあまり知らないんだよね。知らないから、超歴史的に「正しいこと」を言う。「人間は哺乳類で、哺乳類は母乳で育てるんだ」みたいな話は、一見科学的な真理のように見えるけど、人間は単なる動物ではないんだよね。動物がやっているから人間もやる、ということはない。自然科学をやっている人ほど、そこを意識していないことが結構多い。

歴史を知らないと、いくら自然科学の人が言っていることでも違うものは違う、と言えない。人間にはどうしたって反自然的なところがあるんだから、動物学的・医学的な観点からだけ言われても、正しいとは限らない。

「科学的に」と言われると真理っぽく見えちゃうけど、我々はそれで生きてはいない、というのは分かります。

江戸の育児書を読むとね、裕福な家のお母さんは、乳をあげないのが当たり前なんです。子供に乳をあげる役割の人、乳母がいる。実の母であろうとなかろうと、人間の乳だからいいじゃん、という世界なわけです。

現代は、乳母という選択肢がないから、日本語だと「乳をあげる」イコール「母乳」で、「お母さんの乳」なわけだよね。母乳育児って、英語でブレストフィーディング(breastfeeding)と言うでしょう。胸で餌を与える。そこには、乳母か実の母親かの区別がないんです。

本当だ。ブレストフィーディングは「母乳育児」とは直訳できない。

今はそう訳していいんだけど、昔の文献だと、ブレストフィーディングは「母乳をあげる」ことにならない。問題の切り分け方が、「粉ミルクか乳か」ではなくて、「乳母か実母か」だった。それは江戸の育児書を見るとよく分かることで、お医者さんは考えもしないポイントですよね。裕福な家では実の母親があげていなかったとは考えていないから。

哲学者よ、歴史をやれ

「ひとつの物差しだけじゃないかもよ」と言えるのが、歴史の面白さということですね。

そう。それで、これを哲学でやるわけです。哲学者は哲学者で、歴史をあまりやらないんですよ。もちろん思想史の人なら、「こういう概念がこう変遷しました」というふうに、歴史に言及することはある。でも、ある思想が出てきた時に、それが社会的にどういう文脈の中で出てきたかはあまり考えない。哲学の真理は永遠の真理だ、時代を超えた真理を語っているんだ、という普遍性への信仰というか、そういうこだわりがある。でも、違うんだよね。

僕は、哲学者がその時代に何と戦ったかをきちんと考えないと、哲学者に失礼だと思う。その人たちが考えたことが、現実と何の関係もなくなってしまう。普遍的なことだけを考えていた哲学者なんて、そんなにいない。どんな哲学者も「なんでこの時代って、この社会って、こうなんだろう?」という強烈な違和感から始めたりするわけです。

だんだん人口に膾炙して、みんながあちこちで使うようになる概念も、「その元は何だったのか」を分かっていないといけない。そのへんで適当に軽く使ってほしくない、というところがある。もちろんそれが普遍性を持つことはあるんだけど、元々何だったかをきちんと押さえないとダメだと思う。

分かります。フロムの『自由からの逃走』も、アーレントの「悪の凡庸さ」(著書『エルサレムのアイヒマン』から)も、同時代の社会への「なんでこの社会はこうなっちゃったんだろう?」という、とても具体的な疑問から始まっていますもんね。

そうそう、そういうことです。哲学をやっている人は、例えば「人権」という概念だけをポンと持ってきて、「だから大事だ」「これが善でこれが悪だ」と演繹的に積み上げていく。でも、そもそも人権がないのが普通だった時代には、その全てが成り立たない。じゃあその時代は「倫理的に劣った時代」だったのか、その時代にはその時代特有の倫理観・価値観があったと言えるのか――それは、歴史をきちんと見ないと言えないことです。

歴史学者は僕の資料の使い方を「いい加減だ」と思うだろうし、僕自身もそう思っている。だけど哲学者に対しては、「そんな概念、そんなに簡単に普遍的だとは言えないよ」ということを、歴史を示すことで言える。思想が時代をそう簡単に超えられないよ、ってね。

文化人類学だと「これは未開社会の話で、ヨーロッパはこうだ」と言う。でも日本でどうだったかを、僕がきちんと言えれば、「ヨーロッパでも同じことがきっと言えるから、ちゃんと調べてね。僕は調べないけど」と(笑)。

先生の書き方は、歴史学から見るとどうなんでしょう。

歴史学から見たら、恣意的に見える部分は結構あると思う。資料を自分の都合のいいように使っている、というのは自覚しています。歴史学の人は「いや、そんなこと言えないでしょ、もっとこういうのを調べて言わないと」となる。歴史学は資料が一番大事で、資料からどこまで言えるかを緻密にやるから、こんな長いスパンのことは言わない。中世の人は中世、近世の人は近世。私みたいにありえない時代の飛び方をするのは、ストーリーがあるからです。

でも、僕からしたら、それをやらなかったら哲学にならない。単なる歴史研究になる。僕は歴史学者じゃないから。歴史学の資料を扱いながら哲学としてやるというのは、どこかでストーリーを語ることだと思うんだよね。「これこれこういうことなんだ」「こういうことが疑問なんだ」という論理構成を取らなきゃいけなくて、それはストーリーだから、そのために歴史の資料を利用する。

歴史家だったらこの程度の資料でここまで言わないだろうな、というところは、歴史学者の先行研究を使うことで許してもらう。「この人はこう言っているわけだし」と。それを僕がもう一回検証したり反証したりする気はない。信用できる歴史学者の研究を使わせていただく――歴史学的な正しさを担保しつつ、自分の言いたいことを語るために選ぶ、ということは意識的にやったかなと思う。

歴史学的な正しさを担保しつつ、でも語る。だからこれだけの時代のスパンで、角度も幅広い。でも、そのわりには、すらすら読めるんですよね。専門用語がほぼ出てこないですし。

そう、自分の専門の現象学は封印した(笑)。昔の悪霊研究では、現象学の理論に民俗事象を無理やり当てはめたところがあって、まあ邪道な研究ですよ。出来合いの理論に物事を押し込めて解釈するのは、本来の現象学ではない。現象学は「事象そのものをどう見るか」だから。

それもあって、今回は概念を持ち出して説明することはしないと決めた。実際には裏にあるんだけど、表には出さない。

一個一個、「この世界の常識をいかに読み解くか」という手順を、こうで、こうで、でもこうなんですよ、と踏んでいく。めちゃくちゃ丁寧な世界観解説を見ているみたいでした。だから、研究書なのに、普通の人がすらすら読めるんです。

普通の人が読んでくれるのは、非常に嬉しいことですよね。一応、これでも研究書だから(笑)。価格的にも学術書の並びに入るので。

3,000円は、まあ勇気が要りますよ。一般書でも、2,000円を超えると「ちょっと高いよね」となりがちですし。でもこれは、いい意味で学術書っぽくない読後感がある。

分厚い哲学書みたいに、1ページ目からもう「壁」みたいに感じられて前に進めない、というのがないでしょう(笑)。あとね、東大のドイツ・ヨーロッパ研究センター(DESK)で助教をやっていた人に献本したら、「家に置いておいたら妻が読みました。こういう本が大事だと言っていました」と。家族が勝手に読む本って、いい本だと思うんですよ。本人はまだ読んでいなかったらしいけど(笑)、むしろ感想としては嬉しい。緩やかなつながりの第三者からもらう感想、というね。

ますます、他にない立ち位置の本だなと思いました。今日はありがとうございました。

こちらこそ。ジブンジンブンでイベントをやるようだったら、また呼んでください。

『思想としての育児』を手にする梶谷真司先生
『思想としての育児――知識と身体の歴史哲学』(教育評論社)を手に

(聞き手・編集:廣川ちあき)

PROFILE

梶谷真司

梶谷 真司かじたに・しんじ

東京大学大学院総合文化研究科教授。専門は哲学。著書に『考えるとはどういうことか――0歳から100歳までの哲学入門』(幻冬舎新書)、『思想としての育児――知識と身体の歴史哲学』(教育評論社)など。

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