『ジブンの世界はジンブンでできている3』
第三部「三人の歴史学者が歴史について語り合ってみた」より
物語の力と「自分の中の他者」
「自分ごと」として考える。同時に、他人の視点から自分を見る。この鼎談を貫いているのは、その行き来です。ライプツィヒで見た落書きの話も、帝国というかたちの話も、3人がいまの研究テーマにたどり着くまでの話も、AIの話も、どこかでここにつながっています。本書のハイライトである鼎談から、その一場面をお届けします。
この鼎談に登場する研究者
諫早
人文学の良さはまさにそこにありますよね。「自分事」でありつつ、同時に「他人事」として対象を見る。人文学は、その「他人事」を見るために精緻な方法論を作り上げてきました。歴史学にせよ哲学にせよ論理学にせよ、「他人になってみる」ことで逆に自分が見えてくる、という方法論を持っています。
佐藤
「自分事」はこの鼎談の裏テーマでもありますね。今、歴史教育の現場では「他者のことも自分事として捉えよう」という姿勢が非常に強まっています。
それは良いことですが、一方で「自分事」という枠に囚われすぎないか、という懸念もあります。ただ、学問の境界が緩やかになったことで、理念や思想といった抽象論だけでなく、一人一人の「実際の生き方」に光が当たるようになったのは、今の歴史学の良い側面でしょう。
私の著書『御成敗式目 鎌倉武士の法と生活』に「生活」という言葉を入れたのも、理念として理想化された形ではなく、現実の中で制度と個人がどうぶつかり合い、社会をつくっていくのかを描きたかったからです。そうした「創発」的なプロセスに注目が集まっているのは、最近の歴史学の面白い動向だと思います。
南藤
お話を聞いて、「自分事」の解像度が深まりました。「歴史化する」とは、ある種「自分を他人事化する」瞬間でもありますよね。
学部時代、松原隆一郎先生の授業で「大文字の歴史と小文字の歴史をつなぐ」という課題に取り組んだことを思い出します。要するに、社会全体の大きな歴史と個人の小さな歴史、その二つを紐づけて何かを論じてみなさいという課題です。
私は父方の祖母の満洲からの引き揚げを取り上げました。私の曾祖父は金属会社に勤務しており、祖母を含めた曾祖父一家は会社の用意したルートで帰国しています。祖母は存命でしたので、ここまではオーラルヒストリーで把握したのですが、その後当時の引き揚げに関する資料を調べてみると、引き揚げにはさまざまなルートがあり、ルート次第では悲惨な目に遭った方もたくさんいるとのことでした。運次第では、祖母は生きて日本に帰れなかったかもしれない。表の「死者」欄に書かれている数字の一つになっていたかもしれない。
こうした事実に直面したとき、孫である「自分」が、統計上の数字やカテゴリーの一つに変換され、自分自身から切り離される感覚を覚えたんです。自分という存在が「他者化」する瞬間の驚きが、今も記憶に残っています。
諫早
まさに「他人になってみる」感覚ですね。
南藤
「自分の中に、把握していない他者がいる」と気づかせてくれるのが、人文知や歴史の役割だと思います。その裏返しとして、全く違う時代や立場の他者の中に「こいつ、自分と似たところがあるな」と、自分を見出す瞬間もある。「自分事」にするというのは、単に自分のことだけを考えるのではなく、「自分の中の他者」や「他者の中の自分」を行き来しながら、自分という存在を練り上げていく営みなんだと思います。
佐藤
自分自身に対する解像度を高め、理解を深めることで、自分自身も変わっていく。歴史を学ぶことは、ある意味で「自己修養」に近いのかもしれません。
南藤
最近の教育では「主体的な探究」などが重視されますが、自分の関心だけに閉じてしまっては、本当の意味での「自分事の学問」にはなりませんよね。歴史にとって「他者とどう出会うか」「そのうえで自分とどう出会いなおすか」は常に重要なテーマです。
佐藤
余裕がなくなって失敗した例として、一九三〇年代から四〇年代の日本の「皇国史観」的なものが挙げられます。あれは「他者」がどんどんいなくなっていくプロセスでした。そうならないためにも、オルタナティブな見方を提示することが重要です。「他者の中に自分を見出す」ことで考え方を外に開き、自分自身を変えていく。そういうフィードバックのしかたが必要だと思います。
(この続きは本書で)



