——ところで、いわゆるデジタル・ヒューマニティーズ(人文情報学)というと、文学や歴史学の研究で、膨大な資料の分析など、人手のかかる作業をコンピュータに任せる、というイメージが強いです。
ええ、そのような研究が多いと思います。自分の専門領域(ドメイン)の研究の苦労を減らすために、情報技術を導入する、という方向性ですね。ただ、私はその方向性ではないことに面白さを感じたんです。
——……では、別なやりかたを見つけたということですね。
はい。私は逆に、文学研究の暗黙の方法論を情報学の世界に「輸出」したい、と考えたんです。情報学が「技術」を持っているように、文学研究も固有の「技術」を持っているはずです。でも、その技術はこれまで「センス」や「職人芸」とされてほとんど言語化されてきませんでした。私は異分野である情報学と関わることで、「文学研究は、文章を読む時に何をしているのか」ということを、何も知らない人たちがある程度納得する形で説明する必要に迫られたんです。それで、ああ、これは明らかに価値があるし、特異なものだから輸出できるぞ、と思ったんです。
——その「文学の技術」は、どのように情報学と結びついたのでしょう?
きっかけは、ソーシャルメディアを解析するプロジェクトに、人文系の人間として一人放り込まれたことでした。例えば「ソーシャルメディアで『不安』という単語の出現回数が増えているから、みんな不安に思っている」というような、非常に単純な分析が受け入れられていたりします。
——確かに、単語だけみたところで、そんなに単純なものではない、と。
そうなんです。ソーシャルメディアを研究することになって、それまであまり好きではなくて読むことを避けていたデータを大量に読まざるを得なくなって、そこには単語レベルではない、ある種の「パターン」が存在する、と気づいたんです。
——何かしらの法則があるということですね。
はい。たとえば、誰かを褒める時よりも、貶める時の方が、言い回しや論理展開の仕方が非常に類型的です。その「構造」や「飛躍の仕方」の類似性を読み解く嗅覚は、文学研究によって培われたものなんじゃないかなと思い至ったわけです。この、いわば「文学の技術」のようなものを、機械が読み取れるような「特徴」に落とし込んであげれば、単語を拾うだけの分析よりもずっと現実に近い世界が見えてくるはずです。
——専門分野の中で当たり前だと思われていた価値に、異分野という「道具」を使って新しい光を当てたのですね。
まさにそうです。自分の分野に閉じこもっていると、その価値は評価されないどころか、それに価値があることすら気づきません。でも一歩外に出ると、「なんでそんなことができるの?」と心から驚かれるんですね。
——お互いの強みを持ち寄るのですね。
はい。我々は、いわば用途の違う刃物を持っているわけで、どちらかが万能なわけではありません。相手の分野を過大評価も過小評価もせず、疑問があれば怖がらずに聞き、お互いを理解しようとすり合わせる。そのプロセスが不可欠です。幸い、私は人と議論することが好きなので、情報学のこの「協働」の文化が、とても肌に合っていました。
——ご自身の活動で、今度はそうした「わちゃわちゃした場」をプロデュースする側にもなっていらっしゃいますね。
色々な分野の人が集まって、何か新しいものが生まれる瞬間を見るのが好きなんです。そうした出会いを、これからも続けていきたいですね。
——ここまで、本当に予測不能な旅でした。偶然や直感の選択が多かったにも関わらず、子供時代の「なぜだろう」という原点から、全てが繋がっていることに驚きます。
私も若い頃は、もっとちゃんとした、人様に後ろ指をさされないような人生を歩みたい、と思っていました。でも、結局はなるようにしかならない。大学院時代には辛い思い出が多いですが、自分の意志で「これをやる」と決めて、一歩を踏み出してからは本当に楽しいです。なるようにならない中でいかに楽しむか、いかに自由にいられるかが大事です。あとはほとんど運で、つねに少しの勇気を持つこと、そして勇気を持つために心身の健康を維持することができれば、あとはもう全部楽しいおまけみたいなものじゃないでしょうか。だから、もし今、うまくいっていなかったり、悩んだりしている人がいたらいい時も悪い時もあるけれどなんとかはなるよ、と伝えたいです。
——本日はありがとうございました!
こちらこそありがとうございました。


