ジンブン独学ノートの実践編では、実際の研究について紹介します。研究へのモチベーションから、どのように日々の調査が行われているのかまで、インタビュー形式でお届けします。

第三十回となる今回のインタビューでは、失われた技術を求め、自らの手で古代の窯を復元しながら謎多き渥美古窯の探究を続ける陶芸家、稲吉オサムさんにお話を伺います。

「自分ごと」として歴史の謎に挑む究極の探究

——渥美古窯の探求においても、その「納得感」が原動力になっているのでしょうか。

ええ、基本は「なんでだろう?」「本当かな?」の連続です。例えば、渥美古窯の代表作とされる秋草文壺(あきくさもんこつぼ)は、当初、考古学の権威によって「常滑焼」として発表されました。偉い先生が言ったことですから、なかなか覆らない。

——定説になってしまうわけですね。

でも、数年後、土の成分が違うことから「これは常滑ではなく渥美の焼き物だ」と訂正されたんです。権威が言ったからと鵜呑みにせず、自分の目で見て、調べて、納得する。そのプロセスが面白いんです。

——それは、ご自身の作品作りにも通じますか。

そうですね。僕は渥美古窯が作られた平安時代末期から鎌倉時代の製法を再現しようとしていますが、その再現にも自分なりの「納得」があります。例えば、平安時代にはレンガはありません。だから、当時の窯を復元する際に、レンガを一つでも使ってしまったら、それは僕の中では「復元」とは呼べない。

——徹底したこだわりですね。

昔の人はどんな素材を使い、どんな気持ちで穴を掘り、窯を築いたのか。そういうことに思いを馳せることが大事だと思うんです。文献がほとんど残っていないので、わからないことだらけですが。

——あれだけ大アラコ古窯跡のような大きな遺跡が残っているのに、文献がないというのは驚きです。

窯跡はあっても、火を焚く焚口や煙突といった重要な部分が壊れてしまっているので、細かい構造は分からないんです。だから、自分でやってみるしかない。聞ける人が誰もいないから、自分でやる。そして、自分でやることでしか得られない納得があるんです。

——歴史の中に埋もれた職人たちの気持ちに、少しでも近づきたい、と。

そうですね。彼らがどんな思いでこの壺を作っていたのか、知りたいですよね。奥州藤原氏から注文を受けて、はるばる平泉まで船で届けたという事実があります。その現場、例えば経塚から壺が出土した場所へ行くと、その土地の景色や空気を感じることができる。そういうところに、ロマンを感じます。

いつか、僕も自分で作った壺を船に乗せて、当時の海路を辿って奥州まで届けてみたい。昔の人がやったことを追体験することで、僕自身の言葉で、より深くその価値を伝えられるようになるんじゃないかと思っています。

——窯作りには危険も伴うと聞きました。

はい。個人でやっているからこそ、できることでもあります。例えば、自治体が「町の100周年事業で昔の窯を復元しよう」と言っても、穴を掘って窯を作るとなると、天井が崩落するリスクがつきまとう。万が一事故が起きた時に、誰も責任が取れないんです。実際、僕が掘った窯も、完成の一ヶ月後に天井が崩落しました。だから、行政は関わりたくない。

煙の問題や、近隣住民との関係もあります。穴を掘り始めた頃は、「人を埋めているんじゃないか」と噂されたこともありました(笑)。だからこそ、自治会への挨拶や丁寧な説明といった、人付き合いが非常に重要になります。一人でやりたいと思って始めたことですが、結局は多くの人の理解と協力なしには成り立ちません。

——まさに人生をかけたプロジェクトですね。

そうかもしれません。自分でやらないと、自分の身にならない。そして、その経験がまた次の仕事の段取りに繋がっていく。結局、自分を納得させるために生きているのかもしれませんね。

——今日お話をうかがって、稲吉さんの活動は、ご自身の身体と心を通した「究極の自分ごと」としての探求だと感じました。

悩んでいる若い人たちには、「どんどん悩んで、行動すればいい」と伝えたいです。とりあえずやってみて、「違うな」と思ったら引き返せばいい。その繰り返しの中で、きっと何かが見つかるはずです。

——再現性のない、稲吉さんだけの物語が、多くの人を勇気づけると思います。本日は貴重なお話をありがとうございました。