ーー 哲学に続き、映画のお話がここで出てきましたね。映画はもともとよく観るほうだったのですか?
実は、映画を見るようになったのは大学に入ってからです。もっといえば、映画について考えながら観るようになったのも大学に入ってからです。
私は中堅都立高校の出身で、大学に入って私立中高一貫男子校出身の友人たちからかなり影響を受けました。彼らが何にでも詳しくて、カルチャーショックを受けましたね。あるとき、そのようになんにでも詳しい──当時はそのように見えた、というべきですが──私立男子校文芸部の出身だという友人に誘われ、授業後にそのまま名画座で日活ロマンポルノを観ることになりました。で、映画を観たあとの友人の話が、これまで知らなかったことや気づかなかったことだらけで、大いに刺激を受けたというわけです。
そこから自分でも映画を観るようになりましたね。年に300本くらい、すべて劇場で。一時期は、考えたことのメモをとりながら観てました。印象に残ったショットのこととか、この映画は何を映し出しているのか? などなど。
ーー 実際に映画評の形でアウトプットもしていたのですか?
当時は学生新聞社で活動していたので、紙面の映画コラム欄で批評めいたものを書いてました。大学でも、英語論文の授業や映画の授業で映画『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲』でレポートを書いたこともあります。自分でもかなり気に入っている文章です。ってからです。
ーー さらに、教育学の歴史につながるには、もう少し展開がありますよね。
私自身の話になりますが、関心の向く先が時によってバラバラで、いろいろと回り道をしてきたなと思っていて。映画が好きなら、哲学じゃなくて表象文化論のような、もっと適した研究室もあったんじゃないの?と。でも、学部3年生の研究室選択の時点では、勉強が足りなくて表象文化論には行けなかった。さらに、大学院入試でも、表象文化論を受験したものの、面接で不合格に。自分の研究したいことと、研究室でできることが、どうも合っていなかったみたいです。
じゃあ大学院進学先どうしようか、となったときに、表象も映画もいったんいいや、いま学んでいる哲学か、もともとぼんやり興味があった教育分野に進もうかと考え始めました。教職の授業もとっていましたし。それに、今にして思えば、「この世の中、なんでも教育だな」と思っていたところがあって。
ーー「この世の中、なんでも教育だな」、具体的にどういうことでしょう?実際に映画評の形でアウトプットもしていたのですか?
教育=学校で先生が生徒から教わる、という場面だけではなく、もっと広くとらえてみます。例えば、映画を見た後に友達と感想を語り合うときにも、何かを教え、教わる“教育的な関係”があるといえます。
さらに、教育的関係には、知識を与えたりもらったりするだけでなく、いろいろな要素──例えば、人と人とが信頼関係を築くとか──が含まれています。そういう要素が、社会をつくる契機にもなる。そうやって、世界はいろんな意味での“教育的関係”によって成り立っていると思います。
ーー 確かに、日常生活の中にも、いろいろな教育的関係がありそうな気がしてきます。
最近は例えば、人は居酒屋でどう飲み慣れていくのか?ということに私は興味があります。酒場にはどんな教育的関係があって、その中で人はどのように自己形成していくのか、と考えると面白そうですよね。
ちなみに、酒場と自己形成でいうと、人が居酒屋をやってみたくなるきっかけにも自己形成的な面があると思ってます。新宿ゴールデン街で店番のアルバイトをしていたとき、居酒屋をやってみたいと話す人が多くて。よくよくその理由を聞いてみたら、「お店を経営して、お金持ちになりたい」という動機とは別の何かがあるんです。こういう自己形成の話って、まさに教育学が扱うテーマなんです。
なお、ここでいう“自己形成”は、一般的にいう“成長”と近いですが、必ずしも右肩上がりに良くなったり、完成形があったりするものではないです。たえず形を変えていく、“生成変化”といったほうが近いかもしれませんね。