ジンブン独学ノートの実践編では、実際の研究について紹介します。研究へのモチベーションから、どのように日々の調査が行われているのかまで、インタビュー形式でお届けします。

第三十三回となる今回のインタビューでは、中国哲学や高村光太郎研究の視座を活かし、独自の「哲学する」教育を実践されている国語科教員、平居高志さんにお話を伺います。

震災からの教訓と未来を切り拓く「実用哲学」の提言

——そうした生徒さんたちとの関係性の中で、2011年の東日本大震災は、先生ご自身や生徒さんたちにどのような影響を与えましたか。

えっとね、遠くにいる方には多分想像ができないと思うし、こんなこと言うと地元の方々からは怒られると思うんですけど、東日本大震災の影響ってのは、もう限りなく小さいんですよ。

——小さい、ですか。

ええ。確かに家をなくした人もいるし、身内が死んだ人もいるし、いろんな形で影響はあったんだけども、じゃあそれが日常の生活感情に影響してるかって言うと、私はね、生徒たち見てても私たち自身も、なんかほとんど影響ってのないんじゃないかなという風に思ってんですね。

一部の人、特に子供を亡くされた方はそうじゃないんですよ。ただ全体的に見た時に、その外で大騒ぎをするほどのドラマチックな何かがあったかって言うと……。あの、生徒たちに聞いても「いや、何も変わらないよ」と。家を流されてても「いや、何も変わんないよ」という言い方をする。

私も当時は水産高校勤務で、船も全滅、学校も内陸の仮設校舎っていう生活で、それは確かに大変だったんだけど、そんなのは生活の表面的な部分です。人間っていうのは、やっぱり前を向いて生きていきますし、そうじゃなければやってられませんから。すると、過去に津波にやられたっていうのはたいした問題にはならない。おそらく、そういうことなんじゃないですかね。

——では、平居先生ご自身の問題意識は。

私の問題意識っていうのは、あの東日本大震災の「後」に人間たちがやったことの酷さ。悪い意味でですよ。

それはね、結構決定的に近い問題意識ですよね。温暖化の危機がこれだけ深刻化しているのに、もうどう考えても経済活性化のためとしか思えないような巨大土木工事の嵐だし、とにかく後始末のつけ方があまりにも悪すぎて。

それから、私に言わせれば、その「伝承活動」ってのがすごく盛んに行われてるけども、ただやっぱり学ぶことの本質ってのは、その「学ぶ側」にあるわけで、「伝える側」にあるわけでは絶対にないと思うんですよね。

——学ぶ側に本質がある。

ええ。今回の東日本大震災でも、自分たちの経験、教訓を「伝えなくちゃ、伝えなくちゃ」って言い方がされるけど、じゃあ、 自分たちはなんで過去の津波から学べなかったの? と。そっちの方がはるかに重要なんじゃないかなと。伝承に熱心な人たちが、そんなことを考えているようには見えない。

『論語』に「これをいかんせんこれをいかんせんと言わざる者は、我これをいかんともすることなきのみ」という言葉があって、主体的に悩んでいない人を私は指導なんかできない、というような意味ですけど、学ぶことの本質はそれに尽きますよ。教える側がいくらしゃかりきになってもダメ。聖人・孔子にできなかったことが、私たちにできるわけがないじゃないですか(笑)

——最後に、先生が今後取り組んでいきたい「哲学」についてお聞かせください。

『実用「哲学する」入門』にも書いたことですが、哲学には懐疑的、批判的に「考える」という側面と、哲学の文字通りの意味「知識を愛する」、つまり広く知識を集める、勉強するという側面があります。

本のタイトル通り、私にはまず哲学を実用的なもの、現実の世界をより良くしていくための手段として考えたいってのがあります。

例えばね、宮城県知事の村井さんという人が、昨年の秋に、宮城県で土葬を認めてはどうかと言い出したんです。イスラム教徒も多いから彼らにも安心して死ねるような条件整備をしようと。

私は、出発点は違うんだけど、土葬は実現すればいいなぁと思っていました。だって、人間は無限に死に続けるのに、火葬のための化石燃料は絶対に有限です。しかも、二酸化炭素というゴミを出す。火葬が不合理だなんてことは少し考えれば分かるはずです。こんなのは思想ではなくて算数の問題ですよ。だけど、村井さんは嵐のように批判を受けて、知事選前に撤回せざるを得なくなっちゃった。

あるいはね、少子化が大変深刻な問題だって言われてますけど、日本の食糧自給率って38%ですよ。その数字さえ、計算方法によるごまかしがあると言われます。人口が3分の1ににならなければ餓死者が出る。だけど、この国土でいったい何人が養えるのか、なんていう議論は一切聞かない。

石油も食糧も、欲しいだけ永遠に輸入できると思っているからですよね。その前提でばかりものを考える。これが私の言う「哲学がない」っていう現実です。少し考えれば分かるはずなんだけど、それがとてつもなく難しい・・・カエサルが昔言ったとおり、「人間は見たいと思うものしか見えない」からです。そんな人間性の弱点を克服していくのが哲学です。

一方で、哲学ってのは「知を愛する」が語源ですから、考えるために手当たり次第に知識を集めるっていうのも大切なわけですよ。

私の今までの学校外での仕事、高村光太郎であれ、冼星海であれ、あるいは私のブログでは既に3000をかなり越える雑文を公開していますが、その中には政治、日本文学・語学、音楽・音楽史、地理・旅行などいろいろな要素が含まれています。あまりにも種々雑多で、支離滅裂な感じもしますが、私の頭の中では一貫してそれらは哲学の結果です。今までやってきたのと同じように、「道楽」(笑)としての歴史研究を引き続き大切にしながら、その時その時、関心を持ったことを探求していきたいなと。

そうそう、どこか出してくれる会社があれば、「日本の高校論」はぜひ書いてみたいと思いますね。一人の教員として、今の高校教育には多くの問題を感じているので。そんなとこです。