ジンブン独学ノートの実践編では、実際の研究について紹介します。研究へのモチベーションから、どのように日々の調査が行われているのかまで、インタビュー形式でお届けします。

第三十三回となる今回のインタビューでは、中国哲学や高村光太郎研究の視座を活かし、独自の「哲学する」教育を実践されている国語科教員、平居高志さんにお話を伺います。

偶然の教師デビューと「人間としての質感」で伝える教育

——そもそも、平居先生はなぜ「国語」の教師になられたのですか?

え?私がそもそも、なんで国語の教師やってるかってのは、聞いたら多分がっかりすると思うんですけど。

——ぜひお聞かせください。

元々その、教員なんかなる気全然なくて。ただ、哲学とか、まして中国哲学専攻なんて、最も就職先に困る研究室なわけですよ。

ほんでもう、大学の方から「お前らはとにかく就職できないんだから、教員免許だけは取っとけ」と、非常に強い指導があって。

すると、こっちは教員なんかなる気がないから、いかに余計な、つまりは専門外の授業をできるだけ受けずに少ない単位数で取れる教員免許ってのは何なんだろうと探すわけです。

例えば中国哲学っていう専攻は、テキストがほとんど漢文なので、その漢文で読んでる演習とかの授業に出てると、それをなんか日本の古典文学の単位に読み替えてくれるんです。

——単位を読み替えてくれる。

ええ。それで、哲学なのに例えば社会の免許とか、地理とか政治経済に関する授業まで受けなくっちゃダメなので結構ハードルが高くて、国語の免許は簡単に取れると。そういう事情で取った免許が国語しかないっていうことなんです。

——では、なぜ実際に教員に?

私が教育実習に行く時、両親の家が父の転勤で他の所に移っちゃって、母校に教育実習に行けなくなっちゃったんです。それで、当時私が住んでいたところの近くにあった高校に頼み込んで、そこで教育実習をやらせてもらって。

そしたら次の年に、その時世話になった先生が心筋梗塞で亡くなって。いくら非常勤講師を探しても見つからないと。

ほんで、「平居がそういえばまだ大学院でうろうろしてんじゃないか」「あいつは俺たちのおかげで教員免許取れたはずだ」「平居を大学院から呼ぼう」という話になり。

しかもその時、その学校の国語科主任の先生と、私の大学の指導教官が、たまたま大学の同級生で。私のとこに話が来る前に、そこで話がついてて。

——外堀が埋まっていたわけですね。

ええ。私が首を縦に振ればすぐOKな状態になってて。仕方がないからアルバイトに行って、そしたらなんかもう、ずるズるずるズると抜け出せなくなって。「私はこの仕事やる気は元々ないんです」とも言えない雰囲気が作られていき。そのアルバイトに行ってるうちに大学での学問も停滞して。

で、なんかもう「これは人生の行きがかり上、高校の教員になるしかないな」って言ってなったっていうだけの事情なので。

——すごい巡り合わせですね。

だから私は、何か志があって教員になったわけじゃなくて、 教員になった後に志探しをしたわけですよ。

とりあえず成り行きでなってしまったけど、じゃあ、なってしまった以上どうしたらいいんだろう、何を教えたらいいんだろうと。その中の様々な紆余曲折の中で、だんだんだんだん20数年、30年かかって志とでもいうようなものが形成されてきたという、そういう経緯なんですよね。

—— 少し話を戻させてください。その後、平居先生は高校の教員になられます。教育現場では、ご自身の「考える」ことへの問題意識をどのように実践されてきたのでしょうか。

教員としての仕事ってのは、結局その学習指導要領がどうのこうのとかじゃなくて、自分の個性をさらけ出していくことによってしか、多分成り立たないですよ。

だから私としては、正直に自分をさらけ出していく、多分それしかやってきてないんじゃないかなと思うんです。自分が本当にオリジナルに考えたことであり、オリジナルなやり方をしていれば、生徒はその独自性というか、面白さは直感的に感じてるんじゃないかなっていうことはよくありますね。

——生徒さんたちも、先生のそういった独自性を面白がって受け止めている。

どうもこの人は違うぞ、みたいに受け止めてるなってのは感じることがあります。もしかすると、「違うぞ」ではなくて「変だな」かも知れませんけど(笑)

自分の高校時代を思い出したってそうですよね。教科の中身そのものはきちんと覚えてなくても、なんかその先生の「人間としての質感」というか、そういうものを案外覚えてる部分ってのがあると思うので。多分そういうことなんだろうと思います。

——「人間としての質感」、ですか。

はい。いや、「人間としての質感」としか言いようがないですよね。

——著書の中では、哲学を教えることをライフワークにしてきたと書いていますが。

ええ、それがさっき話した志というものなんでしょうけど、正しく情報を集める、真偽を疑う、本来を考える、空間的、時間的な射程を伸ばして損得よりも真偽を考える、それが哲学的な考え方です。授業で文章を読む時、わざわざ哲学っていう言葉を使わなくても、それが少しずつ生徒に伝わるようには努めてきたと思います。私自身がしゃべっていることについても、正しいと思うなよ、疑えよってずっと言っていますし(笑)。

最後は「哲学」の実践について伺います。