ジンブン独学ノートの実践編では、実際の研究について紹介します。研究へのモチベーションから、どのように日々の調査が行われているのかまで、インタビュー形式でお届けします。
第七十回となる今回のインタビューでは、歴史資料をデジタル技術で活用するシステムを作ってきた工学出身の研究者で、いまはサバティカルでブリティッシュコロンビア大学に滞在し、アーカイブズ学とデジタルデータの長期保存を学んでいる、東京大学史料編纂所の中村覚先生にお話を伺います。
野球から情報システムへ
——本日はよろしくお願いいたします。中村先生は歴史資料をデジタル技術で活用する研究をされていますが、学部は理科一類からのスタートだったんですよね。小中学校のころは、どんな子どもだったのでしょうか。
数学や理系科目のほうが得意で、高校も理系に進みました。逆に、国語や日本史、世界史といった、いまで言う人文学は苦手でした。いまは日本史の研究所にいるので、これを言うと同僚の先生方に怒られてしまうかもしれません(笑)。
——苦手だった分野の先生方と研究している、というのは、面白いめぐりあわせだと思います。勉強以外では、何に打ち込んでいらしたんですか。
少年時代はずっと野球でした。小学校も中学校も、練習の多い部で、ほかのことはほとんどせず、野球に打ち込んでいました。ポジションはピッチャーです。のちに甲子園を沸かせた斎藤佑樹さんや田中将大さんと同じ世代で、野球が盛り上がっていた時期でした。
——投手でしたか! チームの要だったわけですね。野球は、どこまで続けられたんですか。
投手だとよくあることなのですが、肘を剥離骨折してしまったんです。このまま高校で投手を続けるのは難しいかなと思いましたし、中学まで野球漬けだったので、高校はいったんその道から外れようと考えたんです。
——思い入れがあったぶん、次に何に打ち込むかは迷いますよね。どうやって見つけていったんでしょうか。
野球部に入るのをやめようと思っていたころに、『耳をすませば』(スタジオジブリの映画、1995年)を観たんです。ヴァイオリン職人を目指す天沢聖司という爽やかな少年が出てくるのですが、彼に憧れてしまって。それまで野球少年だったのに、ヴァイオリンやビオラ、チェロを弾く室内楽部に入りました。
——大きな方針転換だったんですね。室内楽部では、その後どうなったんでしょうか。
半年ほどやりましたが、ご想像の通り、野球しかやってこなくて音楽の才能もないので、まったくついていけませんでした。音も合わない。それで半年で辞めて、帰宅部になりました。
何か熱中できることはないかなと思い、受験勉強を少し早めに始めてみたら、これが楽しかった。周りの友達は放課後になると部活に行ってしまうので、それなら、と高校二年生のころから予備校に通い始めたんです。
——予備校に通ううちに、東京大学という目標が決まっていったのでしょうか。
最初は、目指していませんでした。周りに東京大学を目指す友達はいませんでしたが、別の大学を目指す友達と一緒に、朝から夜まで予備校に通うのが楽しかったですね。そのうちに、模試の結果を見て、東京大学を受けてみようと思うようになりました。
——東京大学では二年生で進学先を決めますが、入学の時点では「こんな学科に進むのかな」というイメージはありましたか。
まったくありませんでした。理数系が得意だから理系、という程度です。入ったころは建築学科かなと思っていました。子どものころからものづくりが好きで、そこはいまの情報システムを作るところにつながっていると思いますが、その時点ではプログラミングもしたことがありませんでした。
——自分で手を動かして、ものづくりをするのが好きだったのですか。
僕は一人っ子だったので、家で絵を描くのが好きでした。あとは、小学生のころに流行っていたミニ四駆です。自分で穴を開けたり、パーツを組み合わせたりして、速い車を作るのが好きでした。
——進学選択(旧:進学振り分け)では、旧船舶海洋工学科などを母体とする、システム創成学科を選ばれます。当初は建築学科がいいなと思っていたところから、どういった変化があったのでしょうか。
大学に入ってから考えが変わって、経営に理系の考え方を取り入れる「経営工学」のほうに関心が向きました。
経営工学を学べるところはどこかと探していたときに見つけたのが、システム創成学科の知能社会システムコースでした。理系でありながら、ビジネスも研究の対象にするコースです。工学部の中でも人文・社会科学の色がある文理融合的な学科でした。
——最先端のことを横断してやる学科でありつつ、ルーツが船舶というのが面白いです。そういえば、船舶工学の研究用に、大きな船型試験水槽を持っていませんでしたか。
おっしゃる通りです。平賀譲(1878-1943)という、海軍の艦艇を設計していた人が工学部長だったころに作られたものです。海軍造船中将を経て、東京帝国大学の総長になった人ですね。船型試験水槽(※1937年竣工。国内の大学が持つ現存の船型試験水槽としては最古)は、工学部の敷地のうち農学部に近いほうに、いまもあります。
研究室の周りの人たちは、船の流体で、いかに抵抗を減らして船を運航させるかという研究をしていました。水槽で小型の船を実際に動かして、抵抗の試験もやっていたんです。
——そこで中村先生だけ、扱うものが違ったわけですね。
卒業研究で配属された研究室は、船舶工学の流れを汲むところで、最初は船の研究をするのかなと思っていました。ところが、平賀譲に関する歴史資料のデジタル化に取り組むことになったんです。
指導教員の先生がすでに科研費を取って、平賀譲が遺した艦艇の設計資料などのデジタル化を進めていらっしゃいました。いまも「平賀譲デジタルアーカイブ」として、東京大学の図書館から公開されています。それを情報技術で活用できないか、というテーマを卒論でいただきました。研究室の修士の先輩が取り組んでいたテーマを引き継ぐ形です。歴史研究はまったくの素人でしたが、これがデジタルアーカイブの世界に入るきっかけでした。
——思っていたものづくりとは違う、と感じたのか、これはこれで面白いと思われたのか。どちらが強かったのでしょうか?
そこはまさにいまの仕事にもつながるのですが、情報システムを作るのが楽しいなと思いました。それまではアナログで、それこそミニ四駆や建物を作るようなタイプの「ものづくり」しかイメージしていなかった。
システム創成に入ってコンピューターを学ぶようになり、最初はシステム作りもプログラミングも分からないところからでしたが、授業や、研究室の先輩に教えてもらいながら、プログラムで情報システムを作っていくのが、ものづくりにつながって楽しかったんです。歴史資料を公開するシステムを作ったり、その資料を使う歴史の先生と組んで、先生が求める機能を実装したり。それが楽しくて、いまも続けています。
次回は、理系と人文学で「価値」の物差しが食い違う学際研究の難しさと、言葉より先にプロトタイプを見せるという方法について伺います。






