ジンブン独学ノートの実践編では、実際の研究について紹介します。研究へのモチベーションから、どのように日々の調査が行われているのかまで、インタビュー形式でお届けします。
第六十三回となる今回のインタビューでは、ヴァーツラフ・ハヴェルの戯曲をはじめとするチェコの不条理演劇を研究し、現代チェコ文学の翻訳も手がけている、豊島美波さんにお話を伺います。
不条理演劇と「二重の距離感」
——社会について語り合いたい若者が集まる場所、という感じだったんですね。そんな中、不条理演劇はどういう位置づけだったんでしょうか。演劇の中でも少しマニアックなイメージがあります。
当時のチェコでは、歌やダンスを混ぜながら展開する、ゆるい構造を持つような演劇も、広く人気だったみたいですね。不条理演劇は、ヨーロッパ演劇の古典的な構造である、「幕」で全体を分割する(「一幕劇」「四幕劇」など)といった構造は保たれていることが多いです。
ただその中に日常生活の論理を逸脱したような不可解なシーンが出てきたりして、絶妙なトゲを混ぜるのが不条理演劇の特徴の一つで、特にインテリ層に人気がありました。「直接言うことなく表現する」「言外のものを察し合う感覚を育む」という規範は、不条理演劇ならではの力ですし、当時の社会主義体制下の社会にとって意味があったんじゃないかと思いますね。
——舞台と客席が、その空気でひとつになる。社会の違和感を共有しあったり、共同体の再確認みたいなことがその場でできるのが、演劇なのかもしれないですね。
あらゆる文化の形態の中で、作品の受け手の反応が一番共有されるのは、やっぱり演劇だと思います。映画ももちろん観客はいますけど、隣の人がどういう顔で見ているかな、というところまでは見ないじゃないですか。
そういう意味では、小さくてもいいから「ミクロ社会」を作ることに、演劇は最も合っていたんだと思いますね。そしてそこでの経験が、ハヴェルが後に「反体制派」として活動していくキャリアのきっかけになっています。
——演者と観客が、直接言葉を交わさなくても、共通の規範を共有してコミュニケーションしている。いわゆる「共犯関係」みたいな。
まさにそうだと思います。それから、チェコの場合、そもそも演劇が文化的な抵抗のメディアとして使われやすかったという歴史があります。
チェコは長らくハプスブルク帝国の一部でしたが、その時代には、役所や教育機関で使われるのがドイツ語で、チェコ語は主に農民や都市下層民の言葉となっていました。プラハの劇場でもチェコ語の公演ができる日にかなり制限があったりしたのです。
そんな状況下で、どうにかしてチェコ語で演劇をするための劇場を作ろうと、チェコ語話者の人々が何十年もかけてめざしてきた。「自分はチェコ人だ、と思っている人は募金をしてください」と市民に呼びかけて募金を集め、やっと国民劇場ができた、という経緯があります。そういった点でも、演劇と社会が密接に繋がっている、特に近代のチェコでは——という側面はありますね。
——「チェコ的なるものとは何か」を、市民が自分たちでずっと考え続けてきたんですね。
チェコの歴史をたどると、いろいろな外からの力で支配者が変わってきます。だからこそ、自分たちの母語は自分たちで命がけで守らないと、本当に喋れなくなる、読んだり書いたりできなくなる。そういう背景や歴史があるので、言葉や演劇への熱量が高いのは、彼らにとっては自然なことなのかもしれないですね。
——チェコ文学や演劇に出会って、ご自身の中で変わった部分や、想像以上だったと思うことはありますか。
「生きるのが楽になったかもしれない」という感覚があります。
日本の社会で生きていると、「ああしなきゃ、これをしなきゃ」みたいな規範があると思うんです。でも、チェコに出会って、日本とは全然違う考えやルールで動いている社会のことを知って、その中で生活する機会を得られた。そうすると、「意外と、こうじゃないやり方もあるんじゃないかな」と、ドライな距離を取って見られるんです。
チェコの伝統で好きなところは、その距離感というか、苦境に陥ったときにドライに反応するところですかね。
——戦車が来たときに「皮肉なジョークを落書きする」というのも、その一つですよね。
そうですね。武装して抵抗しようか、安全な場所に隠れようか、と考える中で、「皮肉の言葉で抵抗する」という選択肢が出てくる。
あと、「ドライな感じ」で思い出すのはチェコの作家、ヤロスラフ・ハシェクの小説『兵士シュヴェイクの冒険』ですね。今から約100年前、第一次世界大戦の時代です。
オーストリア=ハンガリー帝国軍の兵士・シュヴェイクが主人公なんですが、彼はとにかくすっとぼけている。命令に従うふりをしてルールの裏をかいたり、ボソッと面白いことを言ったりして、なぜか結果的に難を逃れたりするんです。常にすっとぼけ続けているんですよ。結果、無駄死にしなくて済んだ、という話かもしれないですが。
その独特な距離感というか——さっきのクンデラの喜劇の話とも通じますが、悲劇的なことが身近に起こると悲劇にしか見えないけれど、遠くから見ると意外と笑えてしまうことがあるじゃないですか。時間が経って振り返ったら笑い話になる、ということもありますよね。
その「二重の距離感」みたいなものを持ちながら生きていけたら、面白い人生になるかも、と思ったんです。
——「どうしよう、困ったな」と途方に暮れている自分と、「うむ、面白くなってきたな」と俯瞰している自分がいる、といいますか。
そうそう。例えば「この仕事につけなかったら終わりかもしれない」と思いつめると苦しいけれど、もう一人の自分が「思い通りにいかないのも、それはそれで面白いかもよ」と俯瞰している、みたいな。二重の距離感があると、ちょっと救いになる感じがします。
——アイデンティティに熱い執着がありながら、一方でこのオフビートなドライさ。チェコの人々の、独特なバランスですね。ジャンプ漫画でいう「努力・友情・勝利」だけじゃない規範で、社会ができている。
そうなんですよね。独特なバランスというか、抜け感がある。みんなでお酒を片手に演劇や社会について熱く語り合っているのに、一方では冗談やすっとぼけで、「なんかうまくいったね」となっていたりする。それはそれで一つの在り方なんだ、というのが、衝撃的でしたね。
——最後に、豊島さんの今後の夢や野望をお聞きしてみたいです。
まず、メインの研究からは少し外れますが、文学の翻訳は、これからもずっとしていきたいなと思っています。
最近、現代のチェコの女性作家が書いた小説(カテジナ・トゥチコヴァー『ジートコヴァーの最後の女神たち』阿部賢一・豊島美波訳、新潮社、2025年)を翻訳しました。現代の作品でありながら、共産主義時代やハプスブルク帝国時代といった、過去を扱いながら展開するのが特徴です。
チェコ文学は、現代文学、特に女性の作品がすごく勢いがあるし、チェコ国内でも人気が高まっている。ビアンカ・ベロヴァー『湖』(阿部賢一訳、河出書房新社、2019年)やアンナ・ツィマ『シブヤで目覚めて』(阿部賢一・須藤輝彦訳、河出書房新社、2021年)など、徐々に日本語にも翻訳されつつあります。他の女性作家の作品も、これから翻訳してみたいですね。チェコ文学の紹介は、専門に限らずずっとやっていきたいなと思っています。
研究方面だと、たとえばチェコとポーランド、そして中央ヨーロッパで同時代にいろいろなパターンの演劇が登場したのを比較研究してみる、ということもやってみたいです。できれば、ほかの言語にも手を広げていきながら。
——演劇の研究フィールドを広げつつ、翻訳者としての仕事も続けたい、というのは、ご自身の原点に通じるものでもありますよね。
そうですね。翻訳って、外国の考え方や世界に触れるという意味では、一番の入り口になるところだと思います。それを手に取って、ちょっとでも興味を持つとか、救いになるとか、「こういう考えでもいいんだ」と思ってくれる人が一人でも増えたら嬉しいな、と思いながらやっています。







